Scribble at 2026-08-23 13:46:06 Last modified: unmodified

現代の生成 AI モデルを開発する企業や組織の大半は、新しく開発するモデルの基礎となるデータを収集したり整備することに多くの手間暇をかけている。これは、もちろん基礎データの準備という初手を間違えたら、どういうアルゴリズムでトレーニングしてもゴミが出来上がってしまうからだ。もちろん、それらのデータを扱うための特徴量の分類やウェイトの設定、それから理論的な背景についても進展させたり向上させる必要はあるが、とにかくデータが重要であることに変わりはない。

既に報道されているからご承知かと思うが、信頼に足ると想定されているデータは枯渇すると予想されている。正確に言えば、収集して整備するプロセスの方が大規模で効率的となっているため、人の手で生み出される著書や学術論文や調査結果などのデータが増えていっても即座に学習用のデータへと解析して取り込んでしまえるので、いつまでたっても腹が空いたまま口を空けている雛鳥のような状況となる。新しいモデルを開発するには一定の分量のデータが追加されなくてはならないから、十分にデータが揃うまで待たなくてはいけなくなる。

このような状況へ陥るのは、学術研究や調査結果などよりも遥かに大量の情報が生み出されているウェブのコンテンツがトレーニングに使えるデータとして役に立たないからである。先の落書きで述べたように、学者や坂道アイドルが毎日のように SNS やブログに何を書いていようと、生成 AI 企業の開発にとってはゴミでしかない。そんなものは、既に「若者言葉」や「日常語」の事例を集める日本語のコーパスを作る基礎データとしてすら役に立たないのだ。

どうしてなのか。自分の書いていることは有益だと思い込んでいる人は非常に多いけれど、学術研究の実務を大学院で叩き込まれている人を除けば、それはたいてい妄想であり、実際には役立つリソースとしては扱えないからだ。その最も大きな理由は、一般人の書いていることには根拠や証拠がないということである。或る風景を眺めて「素晴らしい」と誰かが感じたという文章をブログに書くのは、もちろん個人の自由である。そして、生成 AI のトレーニングにおいては、その風景なり場所と「素晴らしい」と個人が感想を抱いたという関連性くらいはモデルが学習するかもしれない。それはいい。なぜなら、そのような感想には証拠も根拠も必要ないからである。仮にその感想文が行ってもいない土地についてのデタラメな文章だったとしても、当人がそれを本当だと立証できないのと同じく、生成 AI をトレーニングする側にも、文章だけで嘘か本当かを論証することはできないだろう。そして、生成 AI の機能は或る場所や風景の眺めが「素晴らしい」かどうかを決めることではないし、そんなことは生成 AI の開発どころかたいていの他人にとってすらどうでもいいことなので、そういうことに何か理論やアルゴリズムとして優れたアイデアを探す必要など誰も感じていないだろう。

したがって、たとえば僕はこのところ「日本庭園」について調べているのだが、オンラインで公開されているウェブ・ページの 90 % 以上は役に立たないと思う。つまり、日本庭園の歴史を古代から江戸時代まで解説しているような美しいウェブ・ページはたくさんあるのだが、そもそも僕らのようなプロのデザイナーは見栄えなどに騙されたりしないし、なおかつ哲学者でもある僕は本質と無関係な美辞麗句や外見などには惑わされないし、更に学術研究の訓練を受けている者としても無根拠な情報など信用しない。つまり、そうしたウェブ・ページやブログ記事の大半は、根拠も証拠も参考文献も示さずに、なかば自分が読んだり知ってるだけのことを勝手に書いているだけなのである。居酒屋や喫茶店で喋る与太話としては役に立っても、それでは何かを知ったり学ぼうとしている人間、なかんずく僕らのように学識があろうとなかろうと真面目にものを考えたり知ろうとしている人間にとっては信用するだけのリソースにはならないわけである。当人たちがどれほど誠実で真面目に文章を書いていようと、典拠というコンセプトを学んでいない限り、それは文字通り「愚直」というものであり、非難するには値しないが尊重するものでもないのである。日本では、愚直という言葉の「直」という真面目さだけが着目されて、凡人の弁解に使われたりしがちだが、本来は「愚」の方もわきまえるべきだと思う。真面目でもバカはバカなのだ。

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