Scribble at 2026-10-25 08:18:57 Last modified: 2026-10-25 08:26:21
作品の舞台設定や人物設定あるいはプロットについて、不整合が多かったり、あるいは不明の点が多かったりすると、多くの人は作品を一個の物語として体系的かつ合理的に理解したいと思ってしまうので、些細な問題を次々と短絡化し始める傾向がある。その場合に、最も強力なスキームが「記号論」と呼ばれる分析手法であり物事の捉え方だ。
記号論は、もともとソシュールのような言語学者のアプローチとして考案されたわけだが、その対象を拡大して「現象」と呼ばれるもの全般にまで当てはめるようになり、1960年代くらいから流行し始めたポストモダン文芸評論や現代思想系の社会批評などへ応用されていったという経緯がある。いまでは、特に文化や文芸を語るにあたっての素養として学部生が学ぶべき一つのスタンダードな手法だと考えられている。もちろん、僕も記号論というアプローチが多くの文芸作品や社会現象などを理解するにあたって有効だと思う。
ただし、このような分析手法がどういう話題について、どのていどまで有効であるのかは、一つ一つのケースについて当てはめてみて、どういう結論が出てくるのかを試してゆく他にない。そして、学術研究というものは、その成果として表に現れる論文とか研究書においては数多くのチャレンジを経た結果として採用された議論だけが掲載されるので、そういう分析が必ずしも有効ではなかった事例は無視されることが多いので、まるで記号論が万能であるかのような錯覚を読者に与えてしまう場合がある。
記号論においては、まず作者の意図とか真意というものは仮定されない。これは記号論がもともと拠って立つ「現象」という概念が、哲学の議論として事物の本性だとか物事の本質・実態・実相といった観念を許容しないからである。したがって、僕らが経験したり観察することがらが物事の本質を僕らの知覚や認知において反映したり示唆しているのだという構図も許容しない。サルトルの著作などを読めばたちどころに理解できると思うが、「現象学」というアプローチが哲学の認識論や存在論という従来の手法に対して与えた影響の強さは、こういうところにあると言っていい・・・僕はもともと現象学とは異なる「科学哲学」の研究者なのだが、もちろん僕はそれ以前に形容詞がつかない「哲学者」だから、こういう異なるアプローチや仮説を意味もなく毛嫌いする愚かな態度は持ち合わせていない。
ともあれ、このようなわけであるから、記号論を使うと「地主氏の真意」といったものは仮定せずに作品や描写を分析していくこととなる。たとえば、山田と田山という二面性について、佐々木が同一人物だと気づかないという描写は、作者の認知的リアリズムの欠如というよりも、人間が他者を身体的な特徴ではなく、制服や身のこなしによって表現されているところの「コード」によって区別したり認識しているという盲目性として読み解くことができる。したがって、営業マンのくせに佐々木は人物の観察力が低すぎるなどと文句を言ってもしょうがないわけであって、もともと営業マンは人の身体的な特徴や、その人がどういう人物なのかを観察しているのではなく、相手が身に着けている装飾品や衣服、そして態度や身のこなしによって表されているコードや自分との関係を察知することに長けているだけなのだ。
こういう興味深い分析はできるのだが、先に述べた通り、もちろんどんなことにでも有効であるとは限らない。なので、なんでもかんでも「記号」だ「言説」だと指摘していれば済むという短絡こそ避けなくてはいけない。