『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』短評集

河本孝之(KAWAMOTO Takayuki)

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First appeared: 2026-10-10 07:01:43,
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Last modified: 2026-10-10 08:33:18.

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はじめに

このページは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品の原作漫画とテレビ・アニメを題材にした短評を集めています。話題に前後関係や一貫性がないので、どこから読んでいただいてもいいと思いますが、後から追加している内容が再考によって先に書いている内容を修正したり否定している場合があるので、内容に不整合や矛盾がありえることをご承知ください。特に最初はテレビ・アニメ版の話題が多くなっています。

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作品紹介

社畜街道をひた走る、くたびれ中年男性の佐々木。彼のひそやかな癒しといえば、日ごろから愛煙する煙草と、行きつけのスーパーで働く女性店員山田さんのにこやかな接客くらい。

仕事に疲れたある夜、癒しを求めてスーパーに向かうが、目当ての山田さんはおらず、今どき煙草を吸える場所もなし…。意気消沈した佐々木に「ここなら吸える」と声をかけてきたのは、田山という女性だった――。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』公式サイト, https://yanisuu.com/

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』は、地主氏による日本の漫画作品である。2022年3月9日から地主氏の SNS アカウントにて連載されており、『月刊ビッグガンガン』(スクウェア・エニックス)では2022年(Vol.09, 8月25日発売)から2026年10月現在も連載中である。2026年9月の時点で、電子書籍を含む累計部数は400万部を突破している。メディア・ミックスとして、2026年7月から9月までテレビ・アニメが放送された [Wikipedia, 2026]。

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登場人物

佐々木
下の名前は不明(この作品は全ての登場人物が相手から苗字もしくはニック・ネームだけで呼ばれている)。三重県出身で作品の舞台である地域に住んでいるサラリーマンの男性で、作品のスタート時は45歳。「元気商事」というブラック企業の営業職(主任)で、たいてい終電まで仕事をしていたり休みなしの勤務を続けていたりする。年下の妹(既婚者)がいる。真面目で仕事に熱意もあるが、過去に本社勤務で大きな失敗をした。
山田(田山)
下の名前は不明。スーパーマーケット「スーパーS」のパート店員の女性。作品のスタート時は24歳。このスーパーが「超新鮮市場」という名前だった頃(高校生時代)から働いている。理想的な店員「山田」として接客しているときと、素の山田(「田山」とは限らない)に戻ったときの服装や態度や口調に落差があるが、スタッフだけの前では山田の外見でも素の口調で話す。佐々木の前では偽名の「田山」と称して振舞うが、原作漫画のストーリーでは佐々木が気づいたまま気づかないふりをして接することになる。なお、スーパーのスタッフは当然だが本名の「山田」と呼んでいるが、気を使って佐々木の前では「田山」と呼んでいる。仕事に対しては熱心で、これまでに正社員への登用を目指したこともある。カスハラの被害に何度か逢っている。
後藤
スーパーSの店長。佐々木よりは年下の女性だが、佐々木を「佐々木君」と呼ぶ。経営や販促に才能があるらしいが、デスク・ワークを苦手としており、本部に配属されても現場へ戻ってきている。部下への配慮や信頼があり、部下からの信用も厚い。恋愛漫画のファンであり、佐々木と山田の関係には淡いロマンスとして興味をもっているらしい。
前澤
スーパーSの店員で、レジ担当のチーフ。既婚の女性。お調子者で失言がある。
大野
スーパーSの店員で、ベテランのレジ係。58歳の女性で、近く退職して田舎へ帰郷する予定。
小畑
スーパーSの店員で、青果部門担当のチーフ。長身の男性で、引っ込み思案かつ対人恐怖症らしいが仕事は優秀。
川上
スーパーSの店員で、鮮魚部門のチーフ。関西弁を話す小柄な女性。
野間
[Wikipedia, 2026] には「佐々木がスーパーSの近所で出会った眼鏡の男性」とあるが、原作漫画ではスーパーSを経営する企業の本社サービス企画部の社員。原作漫画では第9巻で、ポイントカードの会員募集キャンペーンを実施する要員として派遣されてくる。前澤から「マーくん」と呼ばれており、何人かとは既に面識がある。昔は眼鏡をかけていたが、現在はコンタクトなのか、かけていない。原作漫画では、過去に山田と仕事について意見を違えたような経緯が描かれており、見方によっては山田と付き合っていたようなニュアンスもとれる。
鈴木
元気商事での佐々木の同僚。既婚者で妻と娘がいる。

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短評(1) [落書きからの転載]

異世界転生作品ばかり観ていて食傷気味だったので、たまにはこういうのも観ている。観始めた当初は中年男性の boy meets girl という印象で、おそらく女性からは「モテないオッサンの妄想」だと引かれるような展開なのかと思ったが、そういう単純な事情でもない経緯が描かれている。でもまぁ、ご都合主義と言ってしまえば終わってしまうので、そういう興覚めのコメントはやめておこう。

まず、僕は煙草をやめてから10年以上は経つのだが、何も「禁煙!」と意気込んで止めたわけでもないし、健康診断で肺に影が出ても困ると恐れて止めたわけでもない。単に、吸うというか買うのを止めただけなので、別にいまから吸っても構わない。ただ、10年以上も吸ってないから、いまさら手に入れても美味いかどうかは分からないし、そもそも止めたときの倍くらいの値段になっているので躊躇はするな。ちなみに、最後に吸っていたのは LARK のメンソールだ。で、この作品は喫煙者がメインとなっていて、もちろん煙草を吸っているシーンが多いから、それを理由に受け付けない人もいるだろうと思う。よほどの興味があれば嫌煙家でも漫画を読んだりアニメを観るかもしれないが、実際には喫煙者の話というだけで敬遠する人が多くいると思うので、レビューの大半が好意的な評価になっているという事実だけで作品の客観的な評価だと考えるのは、典型的な認知バイアスであろう。

ただ、そういう点を除けば作品の構成や展開はよくできていると思う。異世界転生作品の幼稚さや粗雑さに比べたら、遥かに丁寧に人物設定やストーリーが作られている。そして、最も魅力的だと感じたのは、スケールの小さな話を過剰演出せずに小さなスケールでちゃんと描いているところだ。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品を簡単に言ってしまえば、クズみたいな会社でこき使われている疲弊した中年男と、高卒でスーパーのレジをやってるネーちゃんの、歳の差カップルができあがるまでの話である。それこそ、こんな話は世界中の郊外にいくらでも実話で転がっているように思えてしまう(もちろん、職業や場所や年齢には色々なバリエーションがある)。でも、最近のラノベや漫画はやたらと世界の重大な出来事がド田舎のここで起きているぞとばかりに過剰演出しようとする。その極致が「セカイ系」であろう。僕はセカイ系は評価しないので、それは嫌だ。人がそれぞれ自分たちの心情とか生き方とか価値観を世界でいちばん大切にしているというのはいい。それはセカイ系でもなんでもない、人の自然な態度や気持ちだからだ。そして、そんなことが宇宙の破滅を防ぐなんて誰も考えてないし、そんなことを期待すらしないで、みんな細々と(という自覚すらなしに)生きて、死んでいく。それが人というものであり、僕はそれでいいと思うんだよね。別に世界を救う必要もないし、東大教授になる必要なんてないし、ベンチャーの社長になる必要もないし、坂道アイドルになる必要もないし、アメリカの大統領になる必要もない、そんなもんたいていの人にとってはどうでもいいことだ。そして、そういうごく普通の価値観や感情やスタンスを、この作品は或る意味で正確に(妙な言い方だが「社会思想的な脈絡で正確に」)描いていると思う。もちろん、僕はそういうリアリティが好きだ。われわれの大多数はミリオネアや映画俳優になったりはしないし、できもしない。だが、その代わりに大量殺人鬼にもなったりもしないし、できもしないのだ。そういう凡庸さや平凡を僕は愛しているけれど、しかし凡庸でも平凡でもないところがあってこそ、色々な技術や芸術が発展していくのだろう。それはそれで一つの驚きであり謎であり喜びでもあるが、それが人類史の中心にあるというのは、僕に言わせれば単なる勝利者史観という幼稚なイデオロギーでしかない。

ついでに言うと、僕が岸 政彦君のやってる「生活史」みたいなのが胡散臭いと思うのは、たくさんの凡庸な人たちの生活を知って何かを言うことはいいけれど、彼らの生き様とか語っていること自体を膨大な分量で「陳列」することの総体に何か意義があるという思い込みが、既にイデオロギーだと思うからだ。でも、この作品はどこなのかも知らない街のありふれたスーパーの一角で起きていることを描いているだけであって、そこに喜怒哀楽なり恋愛なり友情なりが描かれていても、それはそこで起きているスケールに留まる。このような作品が、たとえば違うパターンで10作品だろうと100作品だろうと描かれようと、それらの総体がまるごとで世の中に何かを訴えかけるなんてことはないのだ。なぜなら、個々のストーリーは「まるごとで何かを訴える」一部分として要約されてしまうほど短い話でもなければ粗雑な話でもないからだ。これに対して、生活史と称する分厚い出版物を書店で眺めている限り、話を聴きとっている状況では長時間の会話になっているのだろうけど、個々の登場人物の話は総体としてのなにごとかを訴えるための部品になってしまっている。僕は、考古学を学んでいた小学生の頃でも「民衆史」をやろうと思っていて、為政者や文化人が中心の教科書的な歴史にはウンザリしていたのだが、あくまでも一人一人の生き方や考え方を丁寧に扱おうと思っていたので、結局はそれは無理だと思った。それは学問ではないし、学問である必要もないと思ったからだ。更に言えば、それは民衆史という capitalized な、つまり定冠詞が付いたタイムラインである必要もないのだ。

こういうことを書くのは、いかにも「在野」のアマチュアだと思われるだろうが、僕は大学院にいた頃から哲学は社会的な意義や価値をもつような営みではなく、最後の最後は自分自身にとって有意義であるかどうかだけが尺度の営為だと言ってきた。なので、大学院で学んだり研究して何になるのかと言われても、それが世の中にどう貢献できるのかという意味なら、それは学んだ僕自身が何かをすることでしか示せないわけである。それが論文であるか、それとも世の中に溢れている愚劣な哲学教員のエッセイであるかは知らないが、僕にはそういうものは最後の最後はどうでもいいことに思える。要は僕や連れ合いが有意義に生きたり暮らすことが基準であって、確率の概念を明らかにするといったことがその役に立たないなら、それで修士号を授与されていようと僕は研究を途中で放棄できる人間である。つまり、僕は哲学者であるよりも前に社会人であり、一人の人間だからだ。哲学の研究が最優先であるような人物というのは、通俗的には「カッコいい」かもしれないが、僕に言わせればそんな人は生成 AI に凌駕されてしまうような「哲学ロボット」にすぎない。

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短評(2)

短評(1)の文章を書いて「落書き」として公開した後に、寝ながら色々と考えたり想像しつつ、たまに起きては Google Keep に記録するなんてことをやっていた。そういうメモを元にして、二つ目の短評を追加しておきたい。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のような話は、確かに郊外のどこにでもありそうだと思えるのだが、実際にはこんな(それこそ漫画やアニメとして描かれるほどの「劇的な」という意味での)ストーリーは殆ど起きたりしない。現実の世の中では、こういうことは滅多に起きるものではないからこそ、逆に作品として成立するのだろうし、多くの人たちに求められていたりするのだ。よって、あくまでもそういう意図で制作され創作された「お話」であって、誰か実在する人物(特に作者自身)のドキュメンタリーや回想ではないだろう。寧ろ、絵空事であるからこそ自由に設定できたり自由に話を展開できるし、きちんと商品になるのだ。これは、もちろん産業という脈絡で眺めた論評である。

とは言え、読んでいる側はもちろん、作っている側であろうと、どこかでこういうことが正確に同じようにではなくとも起きていたりするかもしれないと淡い期待を抱いていたりすることもありえる。少なくとも、ラブ・コメディーのような経緯であるかどうかに関係なく、人と人とがお互いに相手のことを気にしたり考えたり想像したりするような関係があったりしないものかと期待しているようなところはあるのだろうと思う。そういうことを想像したり期待しないで、あるいは多くの読み手が期待しうると想定しないで、どうしてこういうストーリーを描いたり提供しようと思えるだろうか。確かに、漫画やアニメというのは、劇的なシーンだとか時間的な推移の中でターニング・ポイントになるような場面だけを取り出しているようなものであるから、登場人物の喜怒哀楽や言動が極端になりやすいけれど、実際には漫画を毎日のように読むからといってエピソードが毎日のように起きたりするわけではない。それでも、常にというわけではないにしろ、相手が何か考えてくれていると期待できることが、おそらくは相手を信頼するとか、あるいは恋愛という感情を生む要素になるのだと言ってよいだろう。なので、この作品は次々とページをめくっていくような読み方をしない方がいいのかもしれない。事実、原作漫画でもエピソードがストーリーの中では1週間や2週間ほど経過した日の話として描かれていたりする。

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短評(3)

ここでは、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』についての否定的な評価を取り上げてみる。もちろん、最初から反論するつもりで取り上げるのではなく、説得力があると思える指摘には同意する用意がある。

まず、最も多いのは、至近距離で煙草に火をつけ合ったり、長時間の雑談を何度も重ねている状況で、メイクや髪型や服装や声色を変えているとは言っても、山田と田山を同一人物であると気づかないのは不自然であるという意見だろう。これは、もちろんその通りだ。そして、佐々木も原作漫画では途中から山田と田山が同一人物だと気づいて、そのうえで気づいていないふりをして両者(同一人物)に接するようになっている。だが、最初から分かるはずだと言われれば、何時間もかけて歌舞伎などの化粧やハリウッド映画の特殊メイクでもしないかぎり、現実の人間の対面では反論が難しい。これは作品のお約束として受け入れる他にないのだろう。ただ、佐々木が初対面の田山から「山田はあたしです」と聞かされて衝撃を受けるという展開でも作品は成立するのではないかという気もする。実際、アニメでは描かれていないが、どうして山田が接客のときだけ別人の振りをしているのかという経緯が謎のままであれば、作品の展開にも事情という深みができるからだ。

次に否定的な評価の理由として多いのは、やはり煙草をコミュニケーション・ツールとして美化しているという指摘だ。とりわけ海外のリベラルな人々からすれば、いまや煙草は百害あって一利なしどころか他人にも副流煙を吸い込ませる「暴力」の道具であり、堕落や自制心のなさを象徴するようなアイテムと見做さている。しかるに、これを人間関係の小道具として採用するどころか作品のキー・アイテムにするなんてことは、もう海外の文芸作品では(歴史小説ですら)難しいことだろう。確かに、煙草があってこその人間関係という前提や想定には疑問を感じなくもないが、僕は「短評(1)」でも述べたように、僕はこの作品が原寸大の凡庸な人々を描いているということを高く評価しているので、煙草をいまだに愛飲しているような人々を描くストーリーにも一定の価値があると思う。もちろん繰り返すが、だからといって東映のヤクザ映画とか、チンピラあるいは不良少年が登場するアニメのように、暴力や殺し合いを哀愁が漂う美的センスで演出したり、スタイリッシュに描こうとする作品は評価しない。『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』の登場人物は、少なくとも喫煙所と自分だけがいる自宅で吸っている限りでは、何とか犯罪としての非難をまぬかれるところにとどまっている。

それから、店舗の通用口あたりで、一般客と就業後の店員が長時間にわたって同席しているというのは、現代の防犯やコンプライアンスという観点ではありえないという指摘もあるようだ。企業で、実質的には法務やコンプライアンスも管掌として担っている人間として言わせてもらえば、まぁ・・・「クソくらえ」という気分がないでもない。そんなことは、ステーク・ホルダである他の店員や利用客や取引先などに影響がないと判断できさえすれば、現場の判断で構わないと思う。法務やコンプライアンスの実装とか実務において最も危険なのは、われわれが何のために何についてルールを決めたり適用するのかという目的や基準について、人に与えられた法令や規格といったものだけを無暗に振り回すことにある。そして逆に、自分たちの業務上の習慣や社内の気風といったものを優先することも危険である。なんにせよ、それらをどちらも考慮したうえで、その条件なりその場所で何が最も妥当であるかを現場で判断しやすいように、権限を譲渡したり、権限の範囲を明確にしてあげることが、マネジメントの責任者の役割でもある。

そしてこれも多いのが、話の流れが単調になりがちであり、過去にあった出来事との関連が分かった後でも、喫煙仲間という表面的な関係から殆ど変わらないという展開が、商業主義的な先延ばしに思えるという批判だ。でも、僕はこれは酷なことだと思う。そもそも、彼らは酷い残業のあとに終電で帰宅したサラリーマンと、夜勤を終えたばかりの店員である。クリアな記憶だとかクリアな議論を求める方が無理というものだろう。僕が夜中の3時頃に、いまの連れ合いと一緒にファミレスで食事をしながら会話していたときを思い返してみても、あれは僕が三十代中頃だから20歳も若かった頃のことだが、それでも会話の内容は殆ど覚えていない。それでも自分の感情とか、この状況や関係を大切だと思う気持ちとかは実感としての記憶がある。

更に、これも多いのがジェンダー論からの批判だ。つまり、凡庸な中年男性の願望を描いているにすぎないというものである。20歳も歳の離れた女性との付き合いという状況そのものが非現実的であるのに加えて、この年齢差があれば通常はハラスメントを警戒する女性が大半なのに、最初から積極的な田山を描くことで人間関係を培う上での最初のハードルが全くなくなってしまっている。そして、なんだかんだ言っても最初から何か惹かれるところがあるからこそ長期間にわたって佐々木との交友関係を続けているのだから、ご都合主義との指摘も多い。そもそも、周囲の登場人物が殆ど例外なく佐々木と山田との交友について理解を示しているのも妙な話ではある。だが、これらの各店については、佐々木に対する警戒心を和らげるプロセスなどが描写されていないだけだという解釈ができると思う。繰り返すが、テレビ・アニメ版でも半年、原作漫画では1年に及ぶ期間の中で起きた出来事を拾い上げて描いているわけなので、途中の経緯を省略しているであろうとの予想はつくであろう。そして、他の従業員から佐々木が最初は警戒されていたのを山田なり他の店員が説き伏せていったようなエピソードを描いたところで、ストーリーとして大して面白くもなければ重要でもないなら、それを割愛するのは当然だ。ドキュメンタリー映画ですら、後から編集して出来事の推移を省略するのだ。特に原作漫画において、どうしてわざわざ各エピソードに日付が記載されているのかという意味を考えてみてもよいのではないだろうか。

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参考文献

ウィキペディアの執筆者 [本文中では “Wikipedia” と表記]

2026

「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」,『ウィキペディア日本語版』, September 26th, 2026, retrieved on October 10, 2026, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%A3%8F%E3%81%A7%E3%83%A4%E3%83%8B%E5%90%B8%E3%81%86%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%82%8A&oldid=111166979.

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