Scribble at 2020-06-02 09:58:12 Last modified: 2020-06-02 10:04:31
添付したのは、アメリカのハイウェイを撮影した写真だ。みなさんもアメリカの殺風景な田舎街道を描写した映画のシーンを観たことがあるかもしれない。そして、写真にあるとおり "billboard"(billing board)が立っている様子も典型と言っていいだろう。なお、広告というよりも何かを訴えたり注意喚起や芸術パフォーマンスの目的で掲示されるものは "outdoor signage" と言ったりする。日本語では「(野立て)看板」とか「(屋外)掲示板」と言うし、広告業界では「サイネージ」も使われている。Wikipedia のエントリーによると、19世紀の半ば頃には使われ始めていたらしい。もちろん環境や景観の保護とか色々な脈絡で批判もされているビルボードではあるが、やはり《アメリカの田舎》を象徴するアイテムの一つとして強い印象を覚える(逆に日本では、ビルボードよりも電柱の立て看板が《日本の下町》を象徴するアイテムの一つだと思う)。そして、これもこれでれっきとした「広告媒体」なのだ。
僕らの生活がこれらの広告媒体に囲まれているというのは、まず都市生活では単純な事実であって否定のしようもない。したがって、それをライフスタイルに対する影響という点で考えると、しばしばアメリカ人のポップ・アーティストに特有の感傷的な議論になりやすい。この ready-made というか given(所与)というか、或る意味では退廃と言うべき状況から始まるしかない人生にあって、一部の人たちが過剰に "nature" というコンセプトに固執するのも理解はできる。そして一定の教育を受けていれば native Americans らの価値観も視野に入ってくるわけで、そうした渇望のような心境には色々と複雑な意味合いがあるのだろう。
広告は現代の社会生活において、恐らくは避けられない。なぜなら、どういう定義をとるにせよ、われわれ自身の認知能力が有限でなおかつ貧弱である以上は、人どうしの情報伝達が行われるにあたっては何らかの取捨選択とか優劣の比較が必要だからだ。仮に、われわれが何らかの目的とか方法という観念を持たずに自分が知覚した事に対する反射的な行動だけをしているなら、その集積として何か一つの目的をもっているようには見えても、個体にとっては目の前で起きることに反応しているだけであるから、彼らに何かを「伝える」必要はない。細菌がお互いに「そうじゃなくて、こうするんだ」と教えあったり、おそらくは昆虫が親子で何らかの行動を世代間で申し送りするなどということはないのである。しかし、それぞれの個体が本能として好き勝手に行動する集積だけで構わないということでは済まないなら、そこでは何らかの決まりごととか外界に対する共通の理解があって、それは共通の目的において共有される筈である。最も原始的な目的は、もちろん食べるとか生存するとか子供を守るといった本能的な欲求にかかわるのだろう。そして、自分たちが暮らす環境についての理解とか決まりごとを、個々の関係で教えあったり、(ときとして暴力的に強制して)共有していればよいだけの規模であれば、驚くべきことに《マーケティング》という概念はこの時点で既に萌芽を認めてもいいと言えるかもしれないが、まだ《広告》を必要とする段階ではない。しかし集団の規模が大きくなると、共通の目的や方法を正確にすべてのメンバーと共有することが難しくなってくる。いわゆる伝言ゲームが始まってしまい、どうしても途中でメンバーの経験や個性にもとづく理解や解釈や表現のブレが生じてしまうからだ。かといって、メンバーをすべて一堂に集めて一度の説明だけで済ませたらいいかと言えば、たぶんそういう説明というものは暮らしの中で何度も繰り返して伝達され共有されなくてはならないものなのだ(最初に教えただけで子供が寝る前に歯を磨くようになれば、親はどんなに楽だろうか)。こうして、誰もが通りかかったり、あるいは宗教的な儀式をする場所にメッセージを残しておくとか、あるいは全員で何かを意味する象徴的なアイテムを大量に作って共有するといった手法が考案されたのだと思う。ものごとを単純な方法で伝えるには、何が最も重要なのかという取捨選択が起きる。『酔虎伝』のアルバイトが覚えさせられる社是とは違って、集団の成員がルールをいくつも(そして全てを実行するように)覚えてくれるとは限らないからだ。もちろん、それは指導的な立場にいる個体の選択にもとづいた集団的なリサーチ・プログラムである。そして、コミットメントの結果として重大な被害を負う集団もいただろう(その多くは、たぶん飢餓で全滅したり、集団で何かの病気に感染したり、有害な食べ物をみんなで摂取して体調を壊したりして、人類の歴史から消えていった筈である。われわれは、そうしたサバイバルを生き抜いた集団の末裔であろう)。
われわれが、技術的な細部はともかくとして、見ず知らずの大勢に向かって何か(少なくとも発信する側が大切だと思うこと)を発信するという行為を繰り返してきた歴史をもつと言えるなら、その歴史は広告の歴史(の一部)と言ってもよいのだろう。したがって、古びたコカ・コーラの看板に何らかのノスタルジーを覚える人について、それを一種の頽廃的な感覚だと解釈する人がいるのも分かるが、それは必ずしも産業化から逃げられないという厭世的な哀愁だけを意味するとは限らないのである。もちろん、逆に前段で述べたような内容を理由として広告を過大評価する(そして夥しい数でバラまかれている現今のクズ広告を擁護する)こともまた、慎むべきであろう。