Scribble at 2022-07-09 21:10:34 Last modified: 2022-07-10 12:30:20

Internet Archive や Project Gutenberg や Perseus Digital Library などのオープンな著作物を収集して公開しているサイトに比べて、どうしても日本語訳の文献となると、翻訳の著作権が切れていない出版物が大半を占めているため入手しづらい。しかも、日本では著作権が切れていようとスキャンしてオープンにするような活動をする人は少なく、経済学者の論文を違法翻訳し続ける『道草』とか『経済学101』といった「善意」の人々が運営する、売名や独りよがりな社会運動を目的としたパフォーマンスばかりがもてはやされる。あるいは、Internet Archive に著作権の切れた日本語の文献をスキャンしてアップロードしようという人も少ない。学術研究などと肩ひじを張るまでもなく、単純にものを勉強するという目的ですら、日本ではリソースが限られている。

そして、たとえ日本で出版された古典の翻訳として著作権が切れたものがあるにせよ、現代の文献批評の成果から言って、もう戦前の翻訳は大半が使い物にならないと言われている。歴史的仮名遣いや旧漢字といった表面的な理由ゆえではなく、そもそも原著の時代背景についての理解が不足していたという点でも誤訳の範疇に入るような翻訳が多いという。そして、それに加えて翻訳者の文章表現という母国語の才能という点でも、悪文の数々はいかんともし難い。だが、それは仕方のないことでもあり、当人らを非難するべきではないだろう。はっきり言えば、明治時代の学者なんて出版する側には選択の余地なんてなかったわけである。たとえばデイヴィッド・ヒュームの研究者なんて、それこそ博士号を受けるレベルの学者なんか明治時代の日本に3人もいなかっただろう。いたら、その人物に翻訳をゆだねるしかないという、究極の選択どころか選択の余地すらないという状況だったに違いない。

結局、現代の成果を加味した翻訳を読むには公共の図書館しか気軽に利用する手立てもなく、そのうち古本すら買えなくなってくるほど大多数の人々が困窮してくるのは目に見えているのだから、こういう学識の地盤沈下という悪循環を止めようとしても、いかにネットのリソースが無償だからといえ、それを書いて無償で公開する学識のある人間がいなくなれば終わりである。後はスキャンした原典から AI が自動で翻訳したものを必要に応じて読むという手段しかなくなる。つまり、日本の出版社は自ら著作権の切れた本でもかたくなにデジタル化を拒み、高額な本を買える一部の人たちだけを目先の購買層として優先するうちに、そういう層が薄くなっても耐えられるような購買層を確保してこなかったわけであり、自分で自分の首を絞めてきたのだ。こんな愚かな連中の自傷・自殺行為に、われわれ哲学者はもとより一般の国民が付き合う必要などない。

いま言ったことが分からないなら、書店で本来は多くの人が手軽にとって学べるはずの新書が、どこのレーベルでも1冊あたり1,000円に迫る価格設定になっていることを考えてみてもらいたい。世間知らずの NHK の連中とは違って、現実の平均的なサラリーマンの年収を400万円ていどと仮定すれば、生活や教育に必要な費用を除けば、別に読書家でも何でもない平凡な人が本を買うために捻出できる小遣いなんて、せいぜい一か月に2,000円が限度のはずだ。要するに最近の書店に並んでいる、税別の定価がそもそも1,000円を超えているような新書だらけになっている状況では、新書を1冊でも買えたらいいということなのだ。これで啓蒙がどうとか言っているのだから、笑止という他にない。僕が経営者なら、分量を1/10に設定して厳密に工数を指定して原稿を書いてもらい、それをウェブ・ページとして1週間に4本ていどずつ公開していくサイトをサブスクで月額200円ていどに設定するだろう。内容として、本当にがんばったら義務教育を終えた人が読める内容に厳しく編集方針を貫いて提供すれば、高校生から高齢者に至る多くのユーザにセールスできて、小遣いが1か月に2,000円の人でも多くの分野について一定の知見が学べるようなサービスにできると思うが、実行する出版社なんてないのだろう。僕が考えたていどのことなら、既に誰かが社内で起案しているはずだからだ。もちろん、ひろゆきとかホリエモンとか、そういう売名だけのクズみたいな連中を「マーケティング」のためだけに筆者として採用するのは、どう考えても長期的な経営の安定とか信頼度とか内容の水準の確保(それは著者を相手にする編集者の見識も維持するということも含む)を考えたら、自殺行為でしかない。そして可能なら、そういうサイトを講談社、岩波書店、中央公論社、平凡社、筑摩書房といった、まともな新書レーベルの会社でアライアンスを組んで運営して、各社が1か月に4本ずつ出稿してアクセスや読者の評価を競うようにすれば、編集なり内容の選択なりで同じ基準の比較ができる。アマゾンのレビューなんてものは、読んでもいないエア・カスタマーが山ほど投稿してるんだから、そんなところでの星の数なんて絶対にあてにならないし、自分たちで運営しているサイトであれば、サクラとか特定イデオロギーの愚かな侮蔑といった不当なレビューを、他社の許可も得るという制限を設けて非表示にしたり統計から除外するという措置もとれるだろう。もちろん、そういう場合に消費者として懸念するのは reputation のカルテルがあるかどうかだが、そこは更に書店員や図書館員などの有志をつのって第三者による評価を加えたらよいだろう。さて、ここまでのスケールで日本の出版業界が啓発的な事業を展開する意欲や予算をもってるかどうかは知らない。プラットフォームやサイトの制作なら、一人で IT ゼネコンの開発一部隊に相当する俺が個人でシステムの構築とデザインはやってもいいがね。

おそらく、このような状況でものを学んだり考えるために必要な学識を大きな負担なしに得ようとすれば、金銭の代わりに時間なり労力を費やして英語を学び、オープンになっている膨大な英語の本であらゆる専門教科を学ぶほかにないという皮肉な結論を出さざるを得なくなってくる。ひとたびそういう循環が始まると、英語の教科書で学んだ人は日本語の専門用語でそれをどう表現するかという点に全く関心がなくなるので(しかもプロパーなら英語で読み書きしてジャーナルに論文が掲載された方が業績になるからなおさらだ)、学生にも英語で読み書きすることを要求することになり、日本語のリソースで研究や教育を継続する動機も効用もなくなってしまう。こうして、この国は文化的に緩慢な死へと向かうことになるのだろう。もちろん、切実に仕事を得ようとか給料のよい地位につきたいと願うなら、どう考えても英語を学んで海外の会社に職を求めるべきであるし、大学の研究者ですら同じことが言える。

実際に、いっときは韓国や中国でも続々と大学院生が博士課程へ進むときはアメリカの大学を選ぶという状況が続いていたのを、やっと国家規模の強力な政策転換で人材を引き戻したり確保している状況だ。そして、日本ではこういう傾向が昔からあったにも関わらず、アメリカやヨーロッパの大学や研究機関で過ごした後に、結局は日本の大学へ戻る人が多かったという奇妙な事情があって、それが実質的に人材の流出であったという理解には至らなかったわけである。正直、ノベール賞を受けた人々の業績の多くは海外の大学に在籍していたころのものであり、日本の大学に戻って以降は、しょーもない教育評論家になったりするのが関の山であり、まるで大リーグで数年ほど活躍してから国内リーグに戻ってくる使い古しのピッチャーみたいなものなのだ。

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