Scribble at 2022-02-26 10:34:11 Last modified: 2022-02-26 10:43:51

自分で買い求めた本が紙クズだったという事例は殆どない。それに、僕は批判のために紙クズを敢えて買って読むほど暇でも金持ちでもないし愚直な人間でもないから、バカが書いた著作物を実際に読む必要など露程も感じない。よって、文庫本にまでなって書店に並んでいる『日本国紀』だとか数々の通俗哲学書など手に取る気はないが、敢えて書名を出して言及する必要も感じていない。言及するということは RT と同じであって、「このウンコ、臭いよね」と他人にウンコの臭いをかがせるのと同じことだからだ。学術研究者、いわんや哲学者になんでそんなことをしてまで「公平な批評」をする責任などあろうか。ウンコは、たいてい現物を手に取る必要などなく、臭いものだ。クズと内心で断定した著作物は、端的に黙殺してさっさと絶版にしてしまえばいい。そういう拙劣なコピペ本が歴史から消えるていどで文化や思想の「多様性」が縮退するほど、日本の文化や思想や伝統は軟弱でも軽薄でもない。こういうクズとしか言いようがない物書きの仕事は、まさしく我らが国の伝統や歴史の力によって抹殺されるのだ。

とは言うものの、いまだに塩野七生氏の歴史小説をローマ帝国の歴史に関する副読本どころか通史だと錯覚している愚かな人々がたくさんいるのも事実だ。これは、要するに中等教育までの課程で古代史をいかに丁寧に教えていないかということでもある。同じく日本史についても、日教組の意向なのかやたらと近代史に偏った教え方をしているだろうし、入試でも似たような出題傾向を避けるためか、「正解」を用意できる事跡がたくさんある現代に近い時代を取り上げることが多いために、古代史は軽視されがちだ。それゆえ、小説家が適当に取材して書いた「おはなし」を歴史のイージーな読み物だと期待したり思い込む習慣ができてしまう。また、マスコミや出版社もそういう錯覚を利用してマーケティングにかかわってきたため、幾つか作品を書いたていどの小説家を歴史学者であるかのような扱いをしたり、果ては大学の客員教授にしたりする。つまるところ、これだけ自国の歴史を軽視している出版業者や教育者によって、ネトウヨが育たなくても、歴史について真面目に向き合おうとしない人間が育つのも無理はない。

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