Scribble at 2022-06-08 12:27:38 Last modified: 2022-06-08 15:22:22

技術的なスキルという点で人員やリソースが不足しているというよりも、寧ろコミュニティとか知識の共有や継承や普及という観点で、日本の学術にかかわる人々(特にアマチュア)は、大手のメディアや出版社に対する依存がむやみに強すぎるという印象がある。

たとえば、僕がかつて高校時代まで4年ほど熱心に勉強していた考古学がそうだ。最近は古墳や埴輪や土偶の薄っぺらい愛好家団体ができているようだが、学術的な成果や活動はほとんど皆無と言える。また、昔からある考古学のサークルだの、それから各地方自治体の規模では必ずと言ってよいほど歴史サークルや郷土史の愛好団体があるけれど、そういった団体を作って活動していても内輪で発行してるような同人誌を除けば成果が全く公表されないし、公表しようともしていない。確かに素人の趣味と言えばそれまでだから、人様に出せるような成果や知見なんてないという、日本におなじみと言うべき coward の謙遜なのかもしれないが、逆に言えば無責任でもある。いやしくも他人の事績や過去の生活跡に踏み込んでおいて、何も言うべきことがないだの言わなくてもいいなどというのは、結局のところ訪れて眺めている史跡や発掘現場についての不勉強や興味本位を見透かされるのが嫌だというだけのことだろう。公に意見や成果を出せば、それが白日のもとにさらされるのだから困る。個人の趣味としてなら、思い込みだろうと不勉強だろうと棺桶に入るまでの数年は適当に楽しく本を読んだり博物館をめぐっていられたらいいというわけだ。

しかし、そんなことでは郷土史や歴史や民俗の研究など、いつまでたっても老人の余技という偏見からは抜け出せまい。

もちろん、そういう人生があってもいいし、無能で無学な凡人の人生なんてたいていはそうして終わる。それを責めることなどできないし、歴史的な事実から言っても、あるいは社会学的な観点で言っても、凡人に凡庸であることを指摘しても無駄であり無効である。しかし、少なくとも何事か公にしたり広めたい意見や成果を手にしているなら、いまでは高額な自費出版などしなくてもウェブサイトでいくらでも公にできるのだから、それをサポートすることには僕もやぶさかではない。でも、冒頭でも書いたように、そういう意欲なり見識があったうえで、海外のように多くの個人やプライベートな団体が公表しているのと同じく、ウェブサイトでの情報発信を望んでいる人が日本にどれほどいるのだろうという懸念がある。

個人やプライベートな団体どころか、日本には考古学や歴史学を専門にするまともなメディアすら存在しない。都内の二束三文なネット・ベンチャーが未熟な大学院生などの協力を得て遊び半分に運営している自称「メディア」はあるかもしれないが、まじめに事業として、あるいは文化的な(出版社や報道機関に勤める人々と同じ程度に、人の生涯を費やすに値するだけの)仕事として、そういうメディアの運営に取り組もうなんて人は、ほぼ日本にいないと言っていいほどだ。

事情として運営することが難しいだろうとは予想がつく。既に2015年には、長らく歴史ファンに愛読されてきた『歴史読本』が休刊しているし、このところ若者だけに限らず中高年にも歴史への無関心が広がっているという印象がある。実際、通俗的な新書を手掛ける物書きや浅薄な切り口しか取り柄のない社会学者を別とすれば、第二次大戦はともかくとして、それ以降の全共闘やバブル時代を過ごした(僕も含めた)当事者がこれらの時代を語ったり文章にしている事例はオンラインにも非常に少なくて、子供や若者に伝えるような教訓や大切な事実なんてないと思っているかのようだ。しかし、そういう状況でこそ歴史に関心をもっている人が、事業として雑誌や書籍の出版は難しいということなら、媒体の制作・維持費としてはコストが安く済む筈のウェブ・コンテンツという手段を選んでよい筈である。

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