Scribble at 2020-06-16 11:54:43 Last modified: 2020-06-19 21:32:09

人権にかかわるテーマというのは、非常にたくさんあって、とても包括的に把握することはできそうにない。もちろん教科書的に概括した用語なり話題をつまみ食いするような作業は中学生にでも(それこそ編集工学おじさんのようなただの乱読家にでも)できるだろう。けれど、何事かについて当事者や支援団体にいるわけでもない人間が一定の所見を述べたり解説するからには、どのように小さなテーマであっても一定の見識なり素養は求められてよい。勉強不足や考察の足りない人間が、更に素養を欠いた素人にブログや CGM サイトで解説している事例は夥しい数に上っているが、そのような逆向きのトリクル・ダウン(つまり思慮の浅い人間のつくるコンテンツの方がオンラインの情報源として良質なコンテンツを圧倒してしまうことを、僕はこう表現している。まぁ皮肉を込めて「民主主義」と言ってもいいが)で人類の知恵や知識が改善されたり進展するわけがなく、無理解や偏見を撒き散らすだけである。

とは言え、このサイトでは何度も書いていることだが、僕は短絡的な権威主義を支持しているわけではない。素人の書くものを学者の書くものよりも軽視してよいとか、どこかへ隔離しろとか、あるいは最低でも博士号をもっていない人間にはオンラインで文章を書かせるなとか、そういうバカげた主張を支持するわけではない(博士号が必要なら僕自身も書けなくなる。とはいえ、自分がものを書いて公表したいがために社会政策に関する条件を甘くするというなら、それは哲学者として恥を知るべき欺瞞であろう)。もとより、このような権威主義が皮肉にも学歴差別という含意を伴うなら、なおさら支持するには値しないだろう。

僕は、差別や公正や平等を語るにあたって何か特権的な立場があるとは信じていない。仮に、その最も典型的な事例である「当事者主義」についても同じである。被差別者《こそ》が差別について正しく語りうるという正当な根拠はないし、そういう主張こそが最も頑迷な偏見の一つであることは、それらが得てして単なる左翼運動の党派的な宣伝道具や、あるいは似非同和と呼ばれる事実上の恐喝行為に使われてきたという歴史を見れば明白であろう。確かに、差別されているという自覚や感情や理解は差別されている側の人々の切実な経験である。これは真実だが、それ《について》考えたり議論したり政策を決めるのは、やはり当人を含めたわれわれの所属する社会なのだ。しかし、既に述べたとおり「社会」なるものもまた特権的に何事かを判断する根拠になってはいけない。これも得てして「社会」や「世の中」を騙る一部の人間たちの道具になりやすいからだ。そして、残念ながらその先鋭的なリスクの一つが、(無能な)社会学者や経済学者や社会運動家やボランティアをはじめとするプロパーなのである。

すると、ここで議論は振り出しに戻ってしまうのだろうか。素人に好き勝手な解説を書かせていても得るものは少なく、かといって学者の多くも学術的に洗練されただけの偏見をバラまいている無能という可能性がある・・・もちろん、だからといって「哲学者」なるものがどこからかの高みから特権的なパースペクティブで独自の議論を立てられるなどという神話を期待する時代は、とっくに過ぎ去った。僕は、よく自己紹介で "philosopher on the road" という表現を使うのだが、そこには市井の哲学者(アマチュア)という意味だけではなく、street philosopher つまり「地べたの哲学者」という意味も込めている(そしてもう一つの意味は、PHILSCI.INFO の Notes で説明している)。これは、何も自虐的に言っているわけではなく、古代ギリシアの時代からリチャード・ローティにまで至る伝統的なスタンスを語っているだけにすぎない。哲学(的思考)というものは、それがどれほど浮世離れした話題についてのものであろうと、やはり僕ら自身のものなのだ。よって、僕が冒頭から議論していることについても、僕ら自身の価値判断(それゆえそこには偏見も差別も混在しうる)にもとづくほかにないのであって、そのうえで僕は素人の議論の積み重ねよりも一定の見識をもつ人々の議論を尊重するとともに、見識など関係なしに語られている議論を尊重するべき相手も確かにたくさんいるという事実を認める。

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