Scribble at 2022-06-19 08:23:11 Last modified: 2022-06-19 23:56:39

もう何週間も苦労しながら読み続けてきた、ホイジンガの『中世の秋』は昨日の時点で下巻の冒頭まで読み進めて保留とした。正直なところ、何の意味があるのか主旨がわからない、14世紀前後にいた王侯貴族や聖職者のつまらない逸話がこれでもかと本の中でばらまかれている。上巻を(何とか)読み通して読書ノートへ書き留めたポイントを改めて眺めてみると、本書は10ページくらいの論文1本で言えるようなことを〈文学的に〉印象付けるための技巧として膨大なページ数を費やしているだけのように思えた。したがって、時間があるときに読みふける類の本としては楽しいのかもしれないが、学術書や思想書としては或る意味で(従来の評価に反して)未熟とすら言える著作であり、時間をかける必要があるのかどうか僕には明言しかねる。少なくとも、50歳を過ぎてなお研鑽を志している身としては、こういうものを読んでいる暇があったらルーマンの『法社会学』を読み返している方が有意義だとしか思えない。そして、ようやく本書を読める牧歌的な日々が僕の人生に訪れるかどうか、保証はなかろう。

ということで、新しく読み始めたのがゲオルグ・ヘンリック・フォン・ヴリクトの『論理分析哲学』(講談社学術文庫)だ。いわゆる「分析哲学」のテキストとしては、国内でも殆ど読まれていないだろうし、原著は北欧の大学でテキストとして採用されているらしいが、国際的なスケールで言っても殆ど読まれていないと思う。本書はフィンランド語版とスウェーデン語版とを参考に翻訳したらしいが、果たして本書の英語版があるのかどうかは不明である(少なくとも、僕は他人の著書や論文の bibliography で本書の英語版が一覧に掲載されている事例を知らない)。

しかし、本書は英米のオーソドックスあるいはスタンダードな通史なり概論とは異なる脈絡を否応なく含んでいるがゆえに、もちろんそうした〈定説〉や〈正史〉しか知らないプロパーこそ読むに値する。そもそも、僕は本書が中心のテーマとして扱っている1960年代以前の「論理的経験主義」とか「論理実証主義」について、教科書的で、雑な扱いの通俗本を超える見識を示すような著作を、一部の例外を除いては知らない。もちろん、その例外は、恩師である竹尾治一郎先生の論文や著書だ。既に現在は日本の国内で論理実証主義とか論理的経験主義にコミットしているプロパーなんて一人もいないだろうし、いやそれどころか日本のプロパーで何かそうした宗派のようなもの、あるいは現象学やら何やらという宗旨に帰依している人物など元からいまい。たいていは、彼らの偶像(アイドル)と言えばヘーゲルとかロックとかプラトンのような個々の哲学者であるか、あるいは池田晶子とか山口周とか千葉雅也といった、書店の大スターどもだろう。特定の学派やアプローチなり思想にコミットしないという態度が、哲学的な「中立さ」という意味のよくわからない、しかし何か良き(何にとって?)事であるというなら、そこから導かれるのは、既存の通史を相対化するような脈絡で書かれた著作にも目を向けるべきだという結論であろう。よって、実際には自らのコミットメントを決めたり明言することに臆病なだけの、ただの coward なのかどうかはともかく、日本のプロパーこそ本書のような著作を積極的に読むべきである。

ということで、僕も過去にはプロパーの補欠みたいな博士課程の学生だった頃があるので、目を通し始めている。すると、序言にしてから、なかなか良いことが書いてある。いわく、哲学の通俗本というものは「こうすれば分かる」などと論じるべきではなく、「こうしても分からない」と論じるべきなのだ。クワインと共に、われわれの知恵や知識の体系で核とされている事項ですら改訂しうると信じるなら、哲学はいうまでもなく学問というものは、「ここは分かる」などと知るためではなく(敢えて通俗的に言わせてもらうが、そんなことは、そもそも真面目に勉強すれば分かるのだ)、「いまのところここから先はぜんぜん分からない」と知るためにあると言ってもよい。われわれが何を知らないかなんて、誰にも決めたり想像できないのだ。そして、その虚空とすら言える絶望的なスケールの自らの(人類全体も含めた)無知を自覚することこそ、学術という営為に取り組もうとする意欲のみなもとであろう。もちろん、自分の単なる勉強不足を「人類の未知の領域」などと言う権利はないが。

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