Scribble at 2021-02-03 17:44:47 Last modified: 2021-02-03 17:50:46
これはよい記事。
とにかく、他人がやってることを「こうだろう」と簡単に思い込まないことが大切なんじゃないか。いままさに犯罪とか自殺が為されようとしてるといった状況でもない限り、ベビーカーで列車に入ってこようと、エスカレータのどこに立ってようと、自分と違うことをしてるからって怒る必要はない。それぞれ、違うことをしているには、違う人間なんだから事情があるんじゃないかと、適度に受け流すことも大人として大切な処世術だ。
こういうことを、倫理学者でもあるまいし、いちいち「寛容の精神」などと大上段に構える未熟な人間が哲学のプロパーや社会運動家にもたくさんいるわけだけど、たいていの人にとっては他人がやってる〈自分とは違う振る舞いや発言〉を解釈したり理解したり判断するのは、それなりにコストがかかるし面倒なことなのだ。そういうことを、いちいち自分に非や不足があるかのように〈要求される〉かのような構図を、評論家ヅラした他人が作ってしまうからこそ、反発する人が出てくるのである。敢えて言うが、キレる老人や、エキセントリックな発言を垂れ流すネトウヨ小僧や左翼ジジイ(もちろんネトウヨジジイや左翼小僧もいる)を作り出している元凶の一部は、そういう未熟な〈道徳〉を押し付ける人々なのだろう。
つまり、列車にベビーカーを押したまま乗車してくる人(別に男性でもいいし、女性だとしても、その子のお母さんとも限らない)を受け入れるというのは、はっきり言えば道徳とか倫理とか正義の問題ではないのだ。そういうことに、必要もなく道徳とか「マナーの問題」などという基準を当てはめる方が大人として未熟なのであり、時と場合によっては(無関心とまでは言わなくても)無頓着であることが適切な態度だという場合だってあるのだ。