2018年11月26日に初出の投稿

Last modified: 2018-11-26

2020年の東京オリンピックにしても、2025年の大阪万博にしても、「もっと他にお金の使い道があるんじゃないか」と言いたくなるのだけれど、こういう「あまりにも平凡な人生に、ちょっとしたアクセントをつけてくれるイベント」って、わりと意味がある出費なのかもしれないな、と、最近は感じています。

 毎日の夕食のおかずが一品増えるのと、年に1回、米津玄師さんのコンサートに行けるのとどちらが良いか、と問われたら、後者を選ぶ人って、けっこう多いのではなかろうか。

2025年に、再び「大阪万博」を開催するということ

破戒僧みたいな名前のミュージシャンのコンサートへ行きたがる人がどれだけいるのか知らないが、こういう周回遅れの現状肯定というのも、やはり「大人」の態度としてはありふれた対処なのだろう。思えば、何丁目の夕陽だの何のというノスタルジーにも通じるメンタリティと同じで、「良い社会を目指して頑張ったけど、もういいよ」的な、いわば老成による回収という弁明にも一定の修辞的な価値がある。人の文明社会は、肉体的・性的な役割を果たせなくなっただけではなく、知恵や思想においても役割を果たせなくなった人間ですら保護するという制度にコミットしている。したがって、ものごとを改善するために何らかの変化へコミットするのではなく、現状の人の生き方を維持するということを、それこそ「地に足の着いた」考え方とかいったレトリックによって一定の割合で保護する仕組みを許容しているのだ。

もちろん、この段落そのものを一種のシニカルな「社会学的分析」として読み解いてもらってもいい。僕も、わざと冷静に、結局は日本を戦争に追いやったようなメンタリティの復元ないし繰り返しを「臨床事例」として記述しているかのような書き方を選んでいる。

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