Scribble at 2022-08-11 21:25:10 Last modified: 2022-08-11 21:29:19
日本のように、かつては大半の日本人がそろばんを習っていて買い物の計算を暗算でやって外国人を驚かせたなどという神話みたいな話がまことしやかに語られていたものだった。日本の社会学者なんてアダルト女優か部落にしか興味がないだろうから、調査する興味も能力もないと思うので代わりに言っておくと、そんな個々のエピソードが事実としてあったとしても、それは既に1980年代くらいから変質してゆき、現在は多くの外国と比べて大差ない状況だと言える。
理由はいくつかあるが、決定的なのは大半の子供がそろばんをやらなくなったという事実にも求められよう。1980年代以降に加速した受験競争の激化によって、子供が学ぶべきこと(そしてそれに捻出できる家計)の取捨選択から言って、補習塾や予備校の費用しか出せない多くの家庭ではそろばん塾に通わせなくなった。それに加えて、手軽に電卓を使えるようになったことも大きな影響があった。僕らの世代でも、既にそろばん塾へ通っていたのはせいぜい小学生までという同級生が多かった印象がある(僕らが小学校を卒業したのは1981年)。塾や予備校なんて幾らでも並行して通えるような資産家や医者の息子や娘だらけの学校でも、進学校となればそろばんよりも他の教科を伸ばしたり補うことに関心をもつ子供や親が大半を占めていたわけである。四則計算なら電卓、あるいは学校で習った計算方法で十分といえば十分だ。東大の入試問題に100桁どうしの掛け算なんて出題されないし、東大だからといって1,000行にもなる表が示されて足し算が出題されるわけでもない。
そしていまや、塾に通わせるだけの余裕がある家庭はさらに少なくなっている。国も、そろばん塾に通わせるくらいなら、あの愚劣な「コーディング学習」とか「プログラミング教育」と称する、楽天や Cyber Agent やアクセンチュアや IBM や富士通や SEGA などを頂点とした奴隷産業で、ブルー・カラーなり工員となるような人材を量産することに熱心だ。
そして他のリテラシーに相当する技能についても教育の機会は失われつつあり、いわゆる「読み書き、そろばん」の類は、価値を理解したり体験しようにも親がそもそも知らないという状況になりつつある。「今北産業」だの、アホみたいな改行を入れて文章を書くケータイ作文だの、なんでも絵文字で誤魔化す軽薄さだのと、まずもって長文を自ら日記などに書いたり読んだりする習慣(能力とまでは言わない。実際、若手でも標準的な分量の本を書いたり読む人はいる)が多くの人々から失われ、そして計算についても必要とする機会が減ってきたために、その必要性も感じられなくなってきた。既にご承知のとおり、大多数の家庭では買い物をするのが大手のスーパー・マーケットとなっている。そこで買い物するときでも、まだ大雑把に暗算しながら買い物をしているならマシな方であり、いまや全く計算もしないで買い物をする人も多いという。そもそもお金の心配がないなら計算などしなくてもいいわけで、いつも通りに買い物をしていれば驚くような金額になるわけがないという気楽さで買い物をする人もいよう。そして、これは昔から FP や保険業界の人物らがブログ記事や雑誌の記事で書いているように、実は中流ていどの貧乏な家庭の主婦に限って買い物をどんぶり勘定でやってしまうらしい。それでも、幸か不幸か明日や明後日に家計が破綻するわけでもなかった時期が長く続いたせいで、1970年代なら当たり前だった、家計簿をつけましょうといった習慣(つまりは家計を管理する習慣)が、クレジット・カードの支払いサイトを心配する習慣だとか、引き落としまでに口座へお金を入れておく算段という習慣に変質してしまったわけである。そしてさらに昨今ではキャッシュレスの決済が国もあげて推進されていて、スーパー・マーケットどころかコンビニエンス・ストアや居酒屋などあらゆる店で、店員が口にする金額くらいしか現実の費用を知る機会がなくなり、中途半端に金があるような人々にしてみれば、大金を使った自覚でもなければ決済の記録すら気にしないという状況になりつつある。
また、日本ではこれに加えて別の脈絡でも悪影響がある。それは、日本に限ったことではないものの、とりわけ「理系」「文系」だとか「右脳人間」「左脳人間」という奇妙な分類が大流行しているせいで、企業経営者や政治家といった各種の分野で権威なり権限を握っている者に限って、「ビジネスに数学は不要だ」とか「こどものしつけに微分方程式なんて関係ない」とか「女に三角関数は不要だ」などという暴論をいまだに繰り返している。理数系の成績が悪くても政治家になったとか金を儲けたという自意識で、かようにイージーな反知性主義や〈オレオレ現場主義〉(学問を軽視して実践や体験だけで物事が改善するという発想は、官僚が口にしようと小学校の教員が口にしようと零細工場の作業員が口にしようと、僕にとってはすべてこの手の悪質なタイプの現場主義である)が罷り通っている状況も見受けられる。
もちろん、こうした状況を色々な脈絡で理解し整理して現状を正確に記述したり説明し、何らかの提案や示唆を与えるという仕事は、教育心理学者や社会学者が遂行するべきことであろう。なにもこうして個人の矮小な記事で指摘されなくとも、気にかけている人はいるかもしれないし、実際に何か調べている人だっているかもしれない。そして、こうした状況にかかわる一部の課題については、上記の著書で議論されているような成果も出ている。生徒や子供のことなど無視して政府のなんとか委員になるようなヘゲモニーやパブリシティの掌握合戦にしか興味がない日本の教育哲学者や、あるいは無駄に分厚い記録本やセンチメンタルな小説を書くかテレビで愚にもつかないコメントを口にするしか能がない社会学者なんかには、とうてい期待などできない。
とはいえ、われわれ哲学者(昔なら「思想家」と呼ばれていたようなスケールで活動していた哲学者の興味の範囲でもあったから)が手掛けるかといっても、既に現在は分業が進んでいて、ルネサンスのような時代でなら可能だった安楽椅子の議論だけで社会制度や文化や習慣を語ることは不可能だし、それは不誠実とすら言えよう。よって、僕はこうした著作物を紹介したり、あるいはイギリスで実施されている national numeracy といったスローガンを掲げた成果を紹介するくらいに留めておきたい。それでも、最後に日本の理数系で出版事業を続けている出版社や編集業の人々には、テキストや教科書を制作するときに、こうしたアプローチにも強い関心をもつよう勧めたい。数学者や数学の学校教員だけで教科書を書かせるのは、はっきり言えば愚行の類だと思う。僕はそこらへんで政府のなんとか委員しかやってないような無能な日本の教育哲学者に比べたら言う資格も能力もあると思うので言うが、「教師は教え方を知っている」というのは、致命的で悪質な自己欺瞞であり錯覚である。