Scribble at 2023-10-23 08:05:32 Last modified: 2023-10-23 10:30:24

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Nanofiche Small storage, for forever.

愚かなことだ。科学哲学者としてというよりも、一人の人間として不愉快な思想だと思う。こういう、どういう理論(社会科学であれ自然科学であれ、あるいは科学哲学であれ)から考えても不可能なことを「やる」と言ってみたり、あるいは「めざす」と言うこと自体が、おそらく何かの宗教的な思い込みというか狂信的な熱意みたいなものを覆い隠す自己欺瞞だと思う。

これは哲学者として概念的にも物理的にも経済的にも反論が不可能だと思うので明言しておくが、組成を永久に保つ素材の開発は不可能である。また、いくらか譲歩して長期間に渡って(具体的には数百万年とか)組成を保つ素材が開発されたとしても、その組成を維持するための環境を維持することができないという別の理由もあろう。その理由の大半は化学的なものではなく、はっきり言えば経済的・政治的な事情であろう。

それから僕の個人としての心情から言っても、そんなことをして何になるのかという気がする。仮に人類が死滅した後も残るような素材で形状を残したとして、何か SF 的な空想があって地球へ訪れた別の知的生命体が発見するとか、あるいは地球上に後から現れた別の知的生命体が、それらの物体を回収して「情報」として利用してくれるといった物語を思い描いているのであれば、僕は二つだけ言いたい。

・そんなことはありえない。

・ありえたとしても、そんなことに大して意味はない。

正直、当サイトで記事を公開している活動にも言えることだが、別に家族でも何でもない他人に何かを伝えたり訴えることに、実のところ大して期待などしていないし、僕自身にとって何か切実な動機とか意味があるわけでもない。僕の文章を読んで、なにほどか社会や世の中がくだらないことにならないようリスク回避の一助にでもなればいいという気分はあるけれど、別に僕の文章を読んで未来の(科学)哲学者に現れてもらいたいなんて思っていない。哲学を志すかどうか、あるいは哲学の知見になにかを学ぶかどうかは、その人それぞれの判断なりコミットメントの問題であって、他人の文章がそれを要求したり促したりはできないと思う。よって、ここや PHILSCI.INFO で論説を掲載しているのは、まったくもって僕自身の趣味的な暇潰しにすぎず、読まれるかどうか、いわんや大勢に読まれるかどうかなんて、どうだっていい。たまたまアクセスして眺めた人がどう思うかは知らないが、何かの役に立つというケースがわずかでもあればいいことだとは思うけれど、それを第一の目的に記事を書いているわけではない。ましてや、この記事が Wayback Machine のキャッシュに残るとしても、それで何かが達成されるなんて期待していない。

ちなみに、このページの末尾に氏名とメール・アドレスを登録して confirmation の手続きをすれば、名前を「永久に」保存してくれるという。まったく笑止としか言いようがないが、ひとまず適当なメール・アドレスを使って同級生の氏名を登録しておいた。これで、彼、大北昌彦君の名は(ローマ字だが)永久に保存されるらしい。知らんけど。

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