Scribble at 2022-07-06 11:55:10 Last modified: 2022-07-06 12:23:18

僕が保守思想を支持している理由はいくつかあるが、一つには民主主義という制度が極端に民衆の権利ばかりを声高に叫んで不可侵のように擁護する思想となっているため、ではその民衆が間違ったときにどうすれば牽制できるのかという発想が欠落していることにある。大衆のやることは〈たいてい〉正しいとか、大衆が間違っても〈やり直せる〉とか、そんな何の根拠もない(少なくとも人類史にそんな実例はない)ことを喚いたところで、自尊心や自我の保護が全ての凡人には心地よいかもしれないが、われわれ哲学者や歴史学者にそんな御託や思い込みは通用しない。結局、この世の中にあるたいていの悪政や悪制の原因は、ようするに一般大衆自らがそういうクズどもを政治家や王様や官僚や裁判官にしたまま放置していることなのだ。歴史において生じた激烈な時代と温和な時代との繰り返しは、簡単に言えば民衆の噴き上がり(政治への固執)と政治への無関心や無頓着とによって繰り返される、自業自得の連鎖にすぎない。

よって、日本でも「保守」と言えば特定の時代の制度とか文化とか生活態度とかを「保守する」だの復興するだのという致命的な誤解が蔓延しているわけだが、特定の制度や文化、つまり或る時代に生まれて生きた人間が作り出したものを特権的な価値として認めるような考えは、結局のところ人の無謬性というあり得ない錯覚に依存しており、保守思想とは全く相いれない。寧ろ、無謬ではなく色々と不正確や不徹底や不誠実を繰り返す人の歴史において、われわれが長きにわたって〈かろうじて継承できた〉僅かな知恵とか考え方とか生活態度のようなものから出発してものを考えなくてはいけない。よって、それを短絡的に天皇制だとか神道だとか言ってるような連中も、それらを「保守」だの「反動」だのと言って非難する左翼にしても、要するに保守思想が何を「保守」しようとするのか、ぜんぜん理解できていないということである。

そして二つ目に、人の世の中が単純に進展したり進歩しているという見方を否定することが保守の要点である。山形浩生氏をはじめとする人々が吹聴しているオプティミズムは、要するに単なる「技術発展」の話にすぎない。そして、ソーシャルだ、みんなでクラウド・ファンディングで助け合いだと喚いている連中も、インターネットがなかった時代にだって根本的には同じような互助制度が多くの国にあったという単純な歴史や事実を無視して、ただのネット・サービスの結果にすぎないキャンペーンを人類の社会や制度の発展だと錯覚しているにすぎない。iPhone を手にして小銭をばらまいてるだけのサルが、500年前の人々よりも人として優れていると言える証拠など、社会科学的には皆無である。

人は、もちろんタブラ・ラサとは言わないまでも、ほぼ〈社会人〉としては白紙の状態で生まれてくる。したがって、育ち方や働き方などで根本的な合理化や効率化や適正化が実現していない社会においては、無数の凡人が〈凡庸な社会人〉として育ち、それぞれ相互作用(それこそ、援助交際やカツアゲといった行為も含めて)を繰り返して、再び凡庸な個体を生み出し育てる。凡人というのは、常に〈最新、最先端の凡人〉にすぎない。確かに、学校制度で教わる「お勉強」の内容は色々と変わってゆくし、中には100年前よりも高度な勉強をする科目も多いだろう。しかし、それで人が人として100年前の人々よりも〈優れた〉社会人になるのかというと、そんなことは決してないのである。そして、人の制度は不完全だし、多くの場合には劣悪でもあるため、そのような制度において生きる人々が無自覚に何らかの悪循環へ巻き込まれ、〈微分方程式が解ける人間のクズ〉に育つ危険もある。ここ最近になって宮台真司氏のような人々が、微分方程式が解ける小学生のような発達障害やサイコパスこそが人類の文化や制度を発展させる特権階級であるといった発言を繰り返しているようだが、こういう最もダメなパターンの権威主義やエリート主義は、当人が「保守」だと自称していようと保守思想ではありえない。しょせん自分が東大を出て有名大学の教授となり、女子高生を100人切りまでしたのに、大衆から巨大な支持を得られないというコンプレックスや鬱憤のはけ口を社会科学の論説に混ぜ込んでおり、似たような出来損ない野郎どもの共感は得てもまともな思想には育たない。

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