Scribble at 2024-01-24 15:39:14 Last modified: 2024-01-24 21:02:11
先日、MarkupDancing の方で名古屋の永井氏が不老不死の電子書籍を発行したという話をしたのだけれど、彼は既に自身の公開しているサイトでも関連する話題を幾つか扱っていて、たとえばレイ・カーツワイルの著書についての批評もある。そして、そこでも例の「マインド・アップローディング」で不老不死という話題を扱っている。
永井氏はマインド・アップローディングで自意識を外部媒体へ転送しても、それはただのコピーでしかないと正しく論評している。そして次に、一部を少しずつナノ・ロボットに置き換えていくというプランについては、それは少しずつ意識を新しい媒体へ移しているのではなく、少しずつ死んでいるにすぎないと言うのだけれど、それはちょっと変だと思った。
第一に、自意識が「少しずつ」移転したり、あるいは「少しずつ」死ぬなどという構成要素をもつ複合的な何かであるという保証はない。もちろん、だからといってどこか脳のクリティカルな部位が損傷を受けると根本的に異なる自意識になってしまったり、あるいは機能しなくなるような何かだとも限らない。そして、それは「何か」と敢えて表現していることでも示唆しているのだけれど、生理的な単位(一つの神経細胞とか一つの脳の部位)であるとも限らない。私見では、意識というのは脳で起きる何らかの反応の副作用(の折り重なり)だという可能性があるからだ。
第二に、仮に僕らの意識が「少しずつ」どうにかなりえるような構成要素をもつ複合的な何かだとして、それが順番に一部分ずつ他の媒体へ置き換わるからといって、それだけのことで「少しずつ死んでいるのと同じだ」とは言えない。なぜなら、われわれの体には代謝という働きがあって、僕ら自身の大半の組織は常に新しい組織に「少しずつ」入れ替わっているからだ。確かに中枢神経系のニューロンは代謝しないとされているが、それはつまり代謝のような入れ替わりが起きるとどうなるかは分かっていないということでもあろう。それを最初から死と同じであると言えるかどうかは分からない。
もし multiple realizability が妥当であり、なおかつ意識や心に関する機能主義が正しいなら、少しずつ死ぬという表現が当てはまるような、心や意識についての仮説は支持できないということになる。もちろん、これについても可否は分からない。