Scribble at 2026-08-09 08:13:38 Last modified: 2026-08-09 08:22:29
ノートの取り方を議論する人に生産的な人はいないなどと揶揄されることはあって、確かに物事の型や方法などに拘り過ぎること、とりわけ何が良くて悪いのかはっきりしないことに、われわれのような凡人が拘り過ぎるのは、端的に言って時間の浪費というものかもしれない。いちいち「フェルミ推計」なんて大袈裟に言わなくとも JK(常識的に考えてみれば)分かるように、ノートを取るということには色々な利点も考えられるが、また色々な欠点やリスクも考えられる。
まず第一に、本を読むという行為に加えてノートを取るのであるから、読書に費やす時間は必ず読むだけに比べて長くなる。何度も言っているように、これを「速読」などという非科学的なオカルトで解決しようとするのは愚行であり、速読などと称するもので博士号を受けたりベンチャー企業を上場させた者などいない(それから意外かもしれないが、IQ の高さを宣伝している人たちが速読について語ることは殆どない)。せいぜい、速読セミナーの講師や速読本の著者になれると思い込むていどの自己催眠がうまくなるだけだ。
第二に、ノートを取ることが前提になると、もちろん手元にノートがなければ読書しない(できない)という本末転倒が生じる。自宅の自室に置いてある、あのノートがなければいけない・・というわけだ。こんな些末で、本質的でもないことに制約されて、本を手にしている場所で好きに読めないというのであれば、それこそ読み、学ぶ機会を自分で奪っているのと同じであろう。
第三に、凡庸な人間に限って、ノートを取るということだけにとどまらず、出来上がったノートの形式あるいは表面的な美しさや均整の取り方などに拘りやすくなって、重要でもなければ本質的でもない瑣事を気にするようになる。これは、ノートの取り方そのものの効率が失われたり、ノートを取ること自体の意欲を自分で失う原因になりやすい。なぜなら、たいていの凡庸な人間には、そういうノートを取るだけの情報を整理する能力だとか、あるいは単純にビジュアル・デザインの才能がないからだ。
それから第四に、これはよく言われることなのでご存じかもしれないが、ノートを取っていることで、いわゆる「モラル・ハザード」が起きるというリスクがある。つまり、ノートに書き留めているのだから、忘れてしまってもノートを読み返せばいいということで、ノートを取る行為が一種のインチキな保険となってしまい、本や論文の内容に集中して考えたり要点を記憶に留めようとする意欲や力が減退してしまうということだ。先の落書きで、アインシュタインが言ったとされる言葉(「調べれば分かるようなことを覚える必要はない」)を紹介したけれど、もちろんこれはノートを取っておけば読書するのに何かを覚えたり考える必要がないという意味ではない。読みながら考えたことは、次に何を読むべきか(自分が何を知らないせいで、この箇所がよく理解できていないと感じるのか)という動機を生むことがあるし、誰について、あるいは何について調べておけば更に良いかという、他の情報や知識や分野や経験などとの関連性を生じるので、読書することで何を更に読まなくてはいけないかが分かる事も多いのだ。
ちなみにだが、冒頭に添付してあるインフォグラフィクスをご覧いただくと、上で僕が議論した内容とぜんぜん違うことが描かれていることにお気づきかと思う。実は、Gemini に「ここで議論した内容をインフォグラフィクスにしろ」と、本文をテキストにしてペーストまでして指示したのに、出来上がったイラストはノートを取るということの欠点について言われている、ただの一般論だ。僕がここで議論している内容がまったく無視されている。このように、このところ Gemini だけでなく ChatGPT もそうだが、昨年くらいをピークにして AI の能力がだんだん低下しているように感じている。攻撃に使われかねないというリスクが言われているため、いわゆるガードレールの過剰な効果が出ているのだろうか。