Scribble at 2024-03-31 18:49:42 Last modified: unmodified

山畑古墳群のサイトを制作するにあたって、もちろん第一次資料は発掘の調査報告書である。また、それを或るていどの分量でまとめて書かれている『河内四條史』の「本編」と「史料編I」も基本的な資料だと言える。というか、それ以降に発行された発掘調査報告書の大半は、実は「山畑古墳群」という名称が使われていても、それは実際には「山畑古墳群に該当する区域の遺構・遺跡」という意味であって、必ずしも古墳、いやそれどころか古墳時代の遺物や遺構が報告されているとは限らない。よって、はっきり言ってしまえば『河内四條史』を読めば山畑古墳群についての基本的な資料は大半が揃うという話になる。他の、あちらこちらで書かれている論文だとか解説文書の類は、要するに大半が『河内四條史』に掲載されている資料を元にした、未熟で雑な妄想だったり、せいぜい良くても強い論拠のない(他の群集墳との対比や連想に訴えるだけの)仮説の域にとどまるわけである。たとえば、山畑古墳群に埋葬された人々の身分についても、大別すれば、(1) 渡来人の馬飼集団だったという記述と、(2) 在地の(もしくは渡来してから在地化した)騎馬集団だったという記述の二種類がある。

なので、山畑古墳群という遺跡群について言える確かなことは、実は多くない。そこを、どのように解説するかが博物館の学芸員の技量(場合によっては誠実さ)である。他の遺跡の説明板とか博物館などの解説文でも、まず一般論を展開しておいて、まるで話題にしている遺跡にも同じことが当てはまるかのような錯覚を利用する人は多い。もちろん、一概に嘘だとも正しいとも言えないからリスクはさほどないし、自信をもって明言できるくらいの根拠がなければ書くべきではないというなら、大半の遺跡の解説文なんて、どこも 1/3 以下の文章になるだろう。そして、考古学という学問は、そういう限界と危険性があるということを弁えている者だけが取り組むべき学問の筈なのである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook