2021年07月25日に初出の投稿

Last modified: 2021-07-26

哲学科に在籍する専門課程の学生なら知っていて当然のことだと思うが、アリストテレスの著作、例えば Prior Analytics(『分析論前書』)を英語訳で読むには、いまのところ Loeb Library から出ているタイトルが手頃だろう。もちろん大学図書館に蔵書があれば借りたら何でもコストはかからないが、いつでも借りられるとは限らない。そして、21世紀に入って数多くの古典が電子化されるどころか無償で公開されるようにはなったけれど、残念ながら Prior Analytics は Project Gutenberg や Perseus Project には収められていない。学生や研究者なら、最も信頼されているイマヌエル・ベッカー版や Oxford Classical Text 版と呼ばれる全集に収められた Prior Analytics を読みたいとか読むべきだと思うかもしれないが、それらの全集に入っていて1冊で2万円くらいする高額のテキストを手に入れる必要がある。こうしてみると、古典とされている著作物でも実はその大半が手軽に読めるものではないことが分かる。日本語訳の『分析論前書・分析論後書』でも7,000円である。

つまり、何が言いたいかというと、大昔ならトインビー、古くはジャレッド・ダイアモンド、最近ではユヴァル・ノア・ハラリ、あるいは日本なら人類史だの哲学史だのといった雑な内容の歴史書を続々と出している地方大学の学長さんとか、こういう大風呂敷の本を書いている人々は、宣伝している側は「知の巨人」などと安っぽい言葉を乱用する傾向にあるが、多くの読者には〈今北産業の社員〉とか〈まとめ本の著者〉としてしか認識されていないということだ。そして、僕が思うには実際にもかような著作物は大量の本を読む時間とお金さえあれば、こう言っては気の毒だが凡庸な才能しかなくても書けるような内容でしかないと思う。彼らがああした本を書けるのは、簡単に言えば普通の学生や社会人では金銭的にも社会的な地位としても手が届かないか読む暇がないものを単に手にとって読めるだけのことでしかないからだ。

もちろん、彼らはそういう役どころで〈まとめ本〉を書いてくれるのだから、あれやこれやの称賛を得て当然である。しかし、それは人類の知恵や知性を 1mm でも進展させ前進させる力があるからではないし、実際に彼らの本を何億人が消費しようと人類の社会は 1mm も良くなっていない。トインビーの本を何人が読んだのかは知らないし、ハラリの『サピエンス全史』が世界中で何冊売れたのか知らないし興味もないが、それで現実いや間接的な効力としてすら、どこかで起きていた紛争が解決したり、些細な外交上の衝突どころか隣近所との諍いが解決した証拠など全くないだろう。

これは真面目に哲学者として言うが、われわれが本を読む目的や効用は、〈本を読んで〉われわれが何かを解決することなどではなく、本を読んだ〈われわれ自身が何かを解決する〉ことなのであって、寧ろそれ以外にあるのかと言いたい。もちろん、強調するべき箇所を替えたことで、本を読む価値が〈ない〉と言いたいわけではない。実際に本を読んで何かを解決した人物はいただろうし、そういう実例もたくさんあるのだろう。しかしながら、それは〈本を読むこと〉によって解決されたわけではない。どれほど本を読もうと、結局のところテロ活動に進むか慈善活動に進むかの違いはあっても、何らかの行動を起こさない限りは〈ゼロ加算〉でしかない。それでも、本を読むことは人の感情とか記憶とか思想に影響を与えることで後に何らかの効果を発揮する云々と、社会科学どころか認知科学としても実証のできない願望を事実であるかのように語りたがる人々というのがいて、実質的に出版業界と共に大規模な集団催眠を引き起こしてきたのではないか。

いいか、出版業界の太鼓持ち学者や物書きども。ハラリを読んで、何事かを考え、そして行動に移して結果を出した人間の数だけを数えよ。それ以外の単なる消費者は「無」としてゼロを加算してから、著作物を評価せよ。

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