Scribble at 2022-04-20 17:15:02 Last modified: 2022-04-20 23:06:21

教科書を使って勉強するときに、ノートを取る人は多い。教科書というものは、書き方の原則として段落ごとに教えたい事項を冒頭に書き下し、段落の途中では冒頭に述べた事項を詳しく説明したり、わかりやすい言葉で言いなおしたり、事例を紹介する。あるいは段落の終わりに教えたい事項を結論として述べるため、その前提になる事実や知識から始まる考察や推論の過程を書き下す手法も採用される。したがって、教科書をノートへまとめるときには、習得するべき事項の補助的な叙述や説明で理解出来たら、それらの補助的な記述までノートへ書き写す必要はないのだから、ノートは教科書よりも記述の分量が少なくなるものである。ただし、教科書に書かれている解説や定義だけでは理解できなかったり、納得いかないという場合もあるため、そのときは図書館で借りた副読本や参考書や他の教科書などから得た補助的な説明を、敢えてノートへ書き写しておくこともあろう。とは言っても、だいたいにおいて日本史のノートが日本史の教科書よりも分厚くなることはない。

ここまでは一般的な学習でつけるノートの話であるが、それを受験やテストが終わった後でも使い続けたいという意欲があれば、高校生なら大学のテキストを読んで、ノートの不足している個所へ新しい事項を書き足したりする。そうやって、大学受験が終わった後だとか、あるいは社会人なら資格試験が終わった後でも使い続けるノートというものは、もちろんそこから先は学問の成果を加えたり、自分なりにノートの記載内容を吟味して、必要があれば書き改めることだってあるような使い方へと進展させることになる。すると逆に、そういう使い方を始めるとノートの方がもともとの教科書よりも分厚いものに〈育って〉いくことはあって、僕が使っている高校数学のノートは、僕が高校時代につけたノートの3倍くらいの分量になっている。そして、集合論や解析学といった個々の分野については、既存のノートへ書き足していくという仕方では限界があるため(それこそ Gowers の『プリンストン 数学大全』の劣化版を自力で作るようなことになる)、ノートを分離して扱わないといけない。しかし、それは本質的な話題ではない。

ノートというか学習という作業なり効用の実情というものは、そうやって一時的に分量が少なくなったり、或るときから分量がどんどん多くなったりするが、結局はノートを使う人の目的とか動機によるところが大きい。そして、ノートを使って何をするにせよ、その効用が大きいか少ないかも、どんなノートを使うかという形式の話ではなく、それを使う人の見識なり節度の問題による。学校では個々の教科について事項を教えるだけでなく、そういう学習の集積としての学問とか、現実の社会でいろいろな仕方で応用されている知識や技能や成果を示すことも重要だろう。もちろん、そういう成果の中に金銭や名誉や地位といった「卑しい」話が入っていてもいいのであって、何を目指す子供にも刺さる成果を紹介してもいい。どのみち、何を目指すかは子供が決めて、自分でその責任を負うのだ。情報セキュリティを学ぶことによって、IT 企業の技術部長として裕福な生活を送れるかもしれないとか、あるいはロシアにヘッドハントされてウクライナの情報統制を混乱させる代わりに大金を手にできるかもしれないと教えてもいい。しょせん、学んだことをどう活用するかは当人次第であり、彼らがどうするかを、敢えて哲学者として言わせてもらうが、日本では「哲学」などと呼んでいるインチキ自己啓発のクズ話でどうにかできるものではない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook