Scribble at 2024-12-16 14:05:23 Last modified: 2024-12-17 14:53:23
ただいま『ティマイオス』というプラトンの著作を新訳で読んでいるところだ。ようやくというか、これまで特に読もうとも思っていなかったのだが、しばしば因果関係の哲学に類する論文などで言及されることがあるため、ひとまず素養として目を通しておくべきなのだろうとは思っていた。PHILSCI.INFO では、いちおうプロパーが読んでいるという想定で「お恥ずかしながら」とは書いたが、実はぜんぜんそんなこと思っていない。
これは僕の哲学史や古典研究についての持論なのだが、或る一冊の本を読んでいなかったせいで致命的な欠陥がある議論とか考察とか思想なんてものは、およそ存在しない。そもそも誰の著作でも欠陥だらけなのであって、そんなことを言い出せば既に出版されている膨大な著作を読まなくてはいけない。そのような発想は、要するに「間違いが怖い」「他人に笑われたり非難されたくない」などという動機や理由で哲学をやっているような人であって、そういう人は哲学を学ぶよりも病院の精神科か心理カウンセラーに通うほうがよいと僕は思う。もちろん傲慢であることも同じ程度に愚かな態度だし、誰しも間違いは犯したくないわけだが、誰かの本を読むこと、あるいは過去の議論を知ることによって、あらゆる間違いが事前に避けられる、したがって古典を、要するに読書しなくてはいけないとか情報を限りなく集めなくてはいけないとか、それとも「哲人」に対する碩学なり物知りという偏見のように、あらゆる学問を学んで知識を得なくてはならないなどと考えるのは、僕のような哲学者に言わせれば単なる強迫観念であって、哲学するスタンスなどではない。さっさとカウンセリングしてもらうべきだ。
というわけで、別に『ティマイオス』一冊を読んでいないことくらい、無能のくせに大学で哲学を教えている厚顔無恥な連中の恥知らずに比べればなんともないわけだが、それでも後学のために目を通しておこうという気はある。ということで読んでいるわけなのだった。でも、50ページほど読み進めてきて、まぁなんというか雑感としては、別に読んでも読まなくても僕がやっている研究には影響ないなと思う。というよりも、たとえば神が造られた人間のうち優れた方の種類が「男」と呼ばれるなんていう、後知恵だろうとなんだろうと現代においてはナンセンスでしかない思想を臆面もなく展開しているのだから、学ぶも何もない。もちろん、古典の研究としては「どうしてこんなことを考えたり述べているのか」という興味本位であれこれと考えることはできようが、そんなもん答えなんて、偏見であることに無自覚な人間に質問したところで、本人に聞いてすら分かるわけがないというのが社会学や社会心理学の常識であろう。
ところで、こういう議論をすると脊髄反射的に「フェミニスト」という名札を僕の代わりに付けてくれようとする親切な、しかし基本的にバカな人がいるわけだが、こんなことはいまどき主義やイデオロギーや政治的な立場で指摘するようなことではなかろう。ただ単に不合理だとか、不当だとか、あるいは議論するにあたって特に必要でもない区別であるからには意味不明というものでしかないからだ。たとえば、力の強さによって人間を区別するなら、単に力の強い人と弱い人という区別でよい(いや、本当はそんな区別に基準などないので、簡単に区別できるものでもないわけだが)。その「力の強い人」に男が入ってもいいし、どこかのアマゾネス軍団の女が入ってもいいわけだし、春麗だのなんのというゲームの女性キャラが想定されてもよかろう。とにもかくにも、そういう区別が仮に必要だとしても、その区別に性別が正確に一致すると考える必要もないし、そう考えるだけで十分と言えるわけでもないのだ。論理的に考えれば明快になると思うが、必要条件でもなければ十分条件でもないなら、それら両者はどちらかがどちらかについてこうだと言えるような論理的関係がない(「無関係」を関係の一つと見做さない限り)のである。
こういう、性別や人種といった差別や偏見に関わる議論というものは、「バカ発見」とまでは言わなくとも、その人物があからさまに偏ったものの見方をしているとか、不正確な概念を使っている証拠として、かなり便利だとも言える。
[追記:2024-12-17] さきほど『ティマイオス』を読了した。正直なところ、訳者である土屋睦廣氏の研究史という解説が最も有益な情報だったと言えるくらいで、因果関係の哲学を専攻する科学哲学者として言っても、なんでこれが多くの著作物で熱心に言及されるのか、やはり納得できない。こんな、いまの水準で言えば、哲学というよりも寧ろ文化人類学として研究するべき粗野で雑な非科学的妄想の類に、かろうじてプラトンの哲学という観点からの興味として学ぶべきところがあるとしても、僕が読まなければならないような内容とは思えなかった。これを読まなかったことで僕自身の哲学的な思索に重大な過失や欠陥が生じるかどうかと問われたら、僕は「ノー」と即答せざるをえない。また、土屋氏の解説にしても「業界話」の一種としてのみ価値があるものであって、こういう解説をわきまえておくことが世界や事象そのものへ向き合うべき哲学において必須の情報や知識であるとはとても思えない。科学哲学のテキストが完成したら、その次に因果関係の哲学の教科書を手掛ける予定はあるが、『ティマイオス』を参考文献表に記載するつもりは全く無い。