Scribble at 2025-03-28 08:15:59 Last modified: unmodified

昨日は、NotebookLM を活用して論文を読んでいた。セレーネ・J・カダーという人物の "Why is Oppression Wrong?" という論文で、彼女はフェミニズムや倫理学の研究者であるから、この論考は Philosophical Studies に掲載される予定だという。もともと、僕は Philosophical Studies というジャーナルに英米系の哲学雑誌という以上の予断(つまり「分析系の」とか)を持っていなかったけれど、それでも Philosophical Studies に論理分析や言語分析と何の関係もないフェミニストの論文が掲載されるというのは、それなりに時代を感じさせる(必ずしも、X で言う「インプレ乞食」と同じく IF だけ稼げたら何でもいいのかと非難したいわけではないが)。

論説の主旨は明解だ。女性に対する「抑圧」と言われる場合に、それは個々人の自由を制限しているからなのだろうか。カダーによれば、それは不自由というよりも不平等によるのだという。人の成長に伴う「社会化」のプロセスでは一定の不自由があり、そういう不自由を女性に対する抑圧の原因として除去しようとすることは、却ってよろしくないという。つまり、抑圧は人々の選択肢を奪うだけでなく、人々の欲求を形成することによっても作用しうるため、自由の減少として捉えきれない側面があるからだとか。そして続けて、あまりにも広範に自由の減少を抑圧と捉えると、一般的な社会化のプロセスとの区別がつかなくなり、抑圧の特異性を捉えられなくなる可能性があり、抑圧されている側だけでなく、支配的な側も自由を減少させられていると解釈できてしまい、抑圧における被害者と加害者の非対称性が見えにくくなるという問題があるという。例えば、ジェンダーによる労働分業は、必ずしも男性が女性の自由を直接的に奪っているわけではないが、女性を不利な立場に置く構造的な抑圧になっている。これに対して、著者は抑圧の根本的な原因を「特定の集団の成員である」という理由に基づいた従属、つまり不平等であると捉える。この視点から見ると、抑圧は単に女性が「男性のような自由」を持っていないという状態ではなく、女性が社会の中で男性よりも低い地位に置かれ、軽んじられ、不利な扱いを受けているという問題として理解されるようになる。

カダーが例として挙げている中絶の制限という話題については、妊娠できない男性と妊娠できる女性の間で自由の程度に差を生み出す。しかし、著者の議論の重要な点は、抑圧が常に自由の減少という形を取るとは限らないということだ。女性が価値の低い労働に追いやられたり、プロフェッショナルとして認識されにくかったり(会社で女性が取引先や顧客へ応対すると、いまでも「男の人、呼んできて」と言われたり、彼女が役職者でも「上司を呼んでこい」などと言われたりする)、人間として軽んじられたりする場合、これは自由の直接的な侵害というよりも、平等な人間としての扱いの否定として理解すべきだ。したがってカダーは、抑圧を不平等として捉えることで、自由の減少という視点だけでは捉えきれなかった抑圧の多様な現れ方や、構造的な抑圧の問題を別の視点からも理解しようとしている。それは、単に「女性には自由がない」と述べるのではなく、「女性は男性と平等な地位と扱いを社会的に否定されている」という、より包括的な抑圧の理解を進めるものだろう。

うーん。なんだか、すでにフェミニストがさんざん議論している筈の論点を繰り返しているようにしかみえないのだが。Philosophical Studies つまり、分析系のジャーナルのレビュアーというのは、フェミニズムの研究史に弱くて、この手の(僕には primitive だとしか思えない)論文を通してしまうようなところがあるんだろうか。ほれ、よく自分の専門でもなんでもない学会に入って、論文の出版点数を増やそうなんてやつがたくさんいるじゃん。失礼かもしれないが、あれと同じなのかね。

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