Scribble at 2026-03-04 07:24:49 Last modified: 2026-03-04 07:30:15

本を読むとき、とりわけ何かを学ぶときにノートを取る人は多い。しかし、ノートをどう取るかが分かっている人、あるいは少なくとも子供の頃に考えて始めた人は少ないと思う。これは、もちろん学校で丁寧に教えてくれる先生が殆どいないからだ。文科省の指導要項にノートの作り方が決められているわけでもないし、それどころか生徒にノートの取り方を教えよと求められているわけでもなく、そしてたいていの教員たち自身も自分がノートの取り方を教わることなく教師になった人が大半であるから、教える必要があるとすら思っていない。そして、これが教育における「下方圧力」の一つである。教育者でありながら、教えたり学ぶということのアマチュアにすぎない人間が、他人の子供を教えるというのだから、これが何十年も続いて継承されると、その国の教育内容や教育成果は着実に低下していく。そして、そういう中でも適応できて生き残った人たちだけが東大などへ進んだり、僕らのように最高学府の大学院博士課程まで進むという、或る分野への適性や意欲や能力とは必ずしも関係のない結果論だけで学歴の階層が決まってしまうのだ(僕は意欲も能力もあったから博士課程まで行けたのだが、適性や受験の要領という意味では進学できなくてもおかしくなかったと思う。入試というものは意欲や哲学的な才能だけではどうにもならないところがあるからだ)。もちろん学ぶことに消極的だったり否定的な人は、それ以外の躾や家庭環境や親ガチャという気の毒な要因で排除され、それはそれで教育する側がサポートするには手の余ることがらであるから、そういう人々までカバーして教育を考えるのは無理である(教育は、キリスト教の伝統がある国々とは違って、必ずしも福祉と関連するわけではない)。寧ろ、現今の教育現場を鑑みるに、文科省の役人や教員にそこまでをカバーさせるのは能力や資質を問う以前の話として過重労働と言って良い。

しかし、そうは言っても子供に、つまり小学校の段階でノートの取り方を教えないというのは、明らかに怠慢である。実際、たいていの学校では授業にノートを持参するように求めていながら、その扱い方を教えないのだから、常識的に考えたらおかしいのは明白なのだが、どうも文科省に求められていないことは教えないのが学校教員の習性らしい。そして、どうしてこうなるかは明白だ。第一の理由は、冒頭でも述べたように、教員自身がノートの取り方を考えたことすらないからであり、第二の理由は、たとえ考えたことがあるとしても、ノートの取り方は「人によって違う」「教科によって違う」であろうから、自分が教えると他の教員あるいは他の教科を教える人々の邪魔や迷惑になるという妄想や強迫観念だ。これは、昔から「アビリーンのパラドクス」と呼ばれているものであり、実際には愚かな判断であるにも関わらず、それを変えようとすると他人の迷惑になると誰もが思い込んでしまい、誰もその愚行を改めようとしないという社会心理学の奇妙な現象のことだ。これは、画一化や全員一致が理想であるかのような、文科省がいまだに理想的な組織の姿として無自覚に軍隊を思い描いているせいで起きている悲惨な事例であり、これを個々の親や子供が引き留めることは非常に難しい。

それぞれの家庭で、きみたち生徒、あるいは親である諸君にできることと言えば、自分たちでものを考えて、しかるべきスタイルで有効なノートを取ることと、そして社交術や処世術として、教師や同級生に対応するための見せパンならぬ見せノートというダミーを運用することくらいだろう。実際、独自のノートの取り方をしていると逆に怒る教員というのがいて、あたかも板書をコピーしたように書き写すのが理想であるかのようなことを妄想している人間がたくさんいる。しかし、そのようなノートこそ時間と筆記具を浪費するだけの最低で最悪の自己満ノートであり、記憶どころか理解のために殆ど効果がないのである。

ちなみに、僕は小学生の頃からノートの取り方を気にし始めて、友達と一緒に下校の途中で天王寺の大型書店に立ち寄っては、いまではビジネス本の一つのジャンルにすらなっているが、いわゆる「勉強法」に類する本でノートの作成方法を取り上げた箇所を眺めたり、そうしたことがらを扱った本を買って、色々と試していたことがある。そうして、学校では僕のノートを回覧して引き写すような同級生が増えたため、教師が逆に禁止する号令を発したほどであった。実際、そのとおりである。学ぶべき内容や学んだ内容というものは、実際には人によって異なるし、異なって良い。したがって、僕のノートが美しく(字も上手くなっていた)合理的に整えられていても、その「合理性」には僕の名札が付いているのだ。なので、誰彼にノートは貸していた(実は、僕自身はノートを作る過程で内容を十分に習得できていたから、皮肉にも自分のノートを読み返す必要がなかった)が、他人のノートをそれこそ引き写すだけでは意味がないだろうと思っていた。

そういうことで、ノートの取り方には色々とあるし、確かに人によって適性なり学ぶ事情なりが異なり、また分野によっても是非が違う可能性はあるから、一律にどうするのが正しいと言えないかもしれない。しかし、

・講義を録音して、あとから生成 AI に要約させる。

・板書を撮影して、あとから生成 AI でインフォグラフィックにまとめさせる。

これらは、一見するとクールで先進的な note taking に見えるかもしれないが、実は最も不適切で非効率なノートの取り方である。これは、単に生成 AI に最適化した入出力でしかないのであって、僕ら自身にとっての最適化などではないからだ。こういう要約やインフォグラフィックをどれだけ眺めても、何の勉強にもならない。この手の要約を山ほどやっている、お得情報系の YouTuber が、何年そんなことを何千本の論文についてやっていようと、絶対に学者にはなれないし博士号も取れない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る