Scribble at 2025-10-25 10:25:50 Last modified: 2025-10-25 14:01:31
BS朝日は24日、ジャーナリストの田原総一朗氏(91)が司会を務める討論番組「激論!クロスファイア」を、今月19日放送分をもって終了すると発表した。番組内で田原氏が行った不適切発言が「政治討論番組としてのモラルを逸脱している」と判断したという。
サイト内を検索してもらえば分かると思うが、僕は田原総一朗氏が口にしたとされる言葉を絶対に使わないようにしているんだよね。もちろん、自宅で家族だけがいる場所でも使わないし、独り言や寝言ですら言っていない自信がある。僕の(オンラインでの)ペルソナから言えば、ここでは罵詈雑言を書いていることもあるため、いかにも使いそうに思えるだろうが、決して一度も使っていない。もっとも、他人の発言として紹介することはある。かつて、弊社にいた何人かのウェブ・ディレクターなどは、なにかと言えば「博*堂*ね!」とか社内で言っていたものだ。もちろん冗談ではあろうが、僕は冗談でもこういう言葉を使う気がしない。
理由として、ひとまず偽善者のフリをした姑息な人間のポーズをとっている穏当な人間だというていどの気概や気構えくらいはあるからだ。善良な人間だと豪語するほど愚かで傲慢ではないものの、いくら食うのに困っても犯罪や暴力に手を染めようとは思っていないし、他人をだまくらかしてケツをまくってやろうとも思わない。
他の理由としては、ややオカルトじみていて、哲学者、しかも科学哲学者の意見としては奇妙に思われるかもしれないが、かような言動は自分に跳ね返ってくるような気がするからだ。冗談でもなんでも、日頃からこういう発言をしたり文章に書いていると、要するに人の生死に対する感受性がなくなっていくような気がする。もちろん、こういうセンチメンタルなことを言う人には、たいていの反論として「こういう過激な発言によって、相手に何かを気づかせるインパクトを与えるのだ」と言う人がいて、田原総一朗氏も似たようなことを言うし、かつて『朝まで生テレビ』で大島渚氏も自分の暴言について同じような弁明を語っていたけれど、結局のところ誰にも彼らの意図は届いていないと思う。ていうか、大島渚という映画監督がいたこと自体、30代以下の人は知らないだろうし興味もないだろう。
なお、僕は「言葉狩り」や言論・報道の規制を推奨しているのだが、もちろん僕がここで話題にしているような表現を使わないのは、自分自身に対する規制である。とはいえ、このような言葉を知っていたり使えるだけの語彙をもつことは望ましい(一部の愚かな英会話本のように、隠語や卑語で英語に親しむなどという錯覚は愚考という他にないが)のであって、差別用語を公的な出版物や表現活動から放逐するという活動は支持するが、辞書や教育から抹消することには反対である。
差別というのは、その経緯や歴史を知って自覚をもって注意していない限り、誰にでも何時でも繰り返し起きる「現象」なのであり、言葉を抹消したところでなくなるものではないからだ。したがって、差別が常に起きる可能性があるという事実なりヒトの心理や習慣や制度の脆弱さを、繰り返して個別に指摘したり対処していくような言葉狩りは、寧ろわれわれが常に誰かを差別してしまうというリスクを自覚するために推奨するべき活動である。そして、われわれ真の保守思想家は、そのようなリスクに向き合うという人類史的なスケールでの叡智を保守する者であり、そういう差別を「人の(社会の)弱さ」と感傷的に名付けるだけで何もしようとしない愚劣な連中が口走る、偽の「伝統」などという陋習は尊重しない。保守主義や保守思想とは、無能や凡人の無為無策を正当化する妄言の別名などではないのだ。