Scribble at 2023-02-04 16:59:09 Last modified: 2023-02-04 17:42:10

大学教育の収益率は明らかにマイナスだが、高校教育も(それに投じられる公費以上に)役に立つ証拠がない。小中学校は役に立つので、その外部性(誰もが字を読めるなど)を考えると公的投資は正当化できるかもしれない。

「大学無償化」は社会的な浪費である

そして、もちろん高等教育を受ける人が少なくなると、情報の非対称性という下らない事実だけで、凡庸もしくは無能でも大学教授をやっていられるというわけだ。でも、大学の進学率が下がったら、信夫君のように学術的な業績の殆どない人々が真っ先に大学から職を追われる筈なのだけど、自覚があるんだろうか。

それから、上記の記事で紹介されている本の著者はプリンストンで博士号を取得して大学教員をやってる、れっきとした大学教育の恩恵を受けた人物だ。したがって、大学はいらないと訴える著作物を大学教員が書くのは、既得権益をもつ連中の梯子外しだと非難されるのは当然だろう。実際にそういうリバタリアンは多い。日本でも、IT企業の経営者や金融マンや上場企業の中堅社員がしこたま貯め込んでから「いまの地位を失ってもいい」と言って山形か長野あたりの山奥にある一軒家へ移り住んでパン屋でも始めるのは勝手だが、そういう人々が「IT企業なんて必要ない」とか「金融なんていらない」とか「上場企業なんて入らなくてもいい」などと言えば、もちろん多くの人々の批判にさらされる。

つまり、大学が必要ないと思うなら、論理的には大学で教えている自分こそが学生に教えることを拒絶しなくてはいけない。なんであれ大学が若者の時間を浪費させているという議論をしたいなら、まさにそれを是正するための確実な一歩は、大学教授である自分自身が率先して大学を辞めることであろう。もしそうでないなら、仮に国の教育行政が大転換を計って偏差値の低い大学から順番に教育機関としての認定を更新せずに潰してゆき、大学教員が続々と職を追われるようになったら、この人物は自分の大学が廃校となるまで待つのだろうか。あるいは、また別の大学へ移籍してゆき、とうとう教えるところがなくなるまで大学教員であり続けるのだろうか。あるいは、国の政策が変わると分かった時点で、喜び勇んで真っ先に大学の職を辞するのか。

俺は、こういう連中に限って最後の最後まで大学教員の椅子から立とうとはしないと思うがね。そして、社会科学の研究者の大半が、悪い世の中という現実に依存して食ってる(そして自分のやることで何かが良くなるとも思っていない)ような好事家であるのと同じく、こういう人物も大学教育を不要だと言いつつ、大学教育が無くなる時代になるとは思ってないんだろう。あるいは、そういう時代が来るまで逃げ切れる(あるいは、その前に死ぬからいいし)と思ってるのではないか。

しかしもちろん、逆に大学教員ではない人物が同じような議論をすれば、今度はやっかみや妬みだと言われるだろう。たとえば僕のような、神戸大に残るのは難しかったとしても、どこかの大学で科学哲学の教員にはなれたかもしれないのに中退したような人間が同じことを言えば、職にあぶれたオーバー・ドクターなどがオンラインで書き綴っている文章によくある、つまらない恨み節みたいなものに思えるだろう。ちなみに、負け惜しみでも何でもなく、僕はたぶん大学教員にならなくてよかったかもしれない。いまは仕事でもあるし違う心境だけれど、博士課程で学部生や修士の学生を指導していた頃は、学ぶ気がない人間や、意欲はあってもバカな人間の相手をするのは耐え難いと思っていたからだ。ともかく、こういう大半の人に正もしくは負の利害関係がある教育とか子育てとか医療といった話題については、そう簡単に要不要を議論できるものではないというのが堅実なものの見方であろう。

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