Scribble at 2024-12-13 10:13:01 Last modified: 2024-12-13 12:27:39

フェミニズムの科学哲学とかポストコロニアルな哲学といったアプローチに、一時的でセンセーショナルなインパクトはあっても、しょせんそれに関わるのは一種の「福祉」や「善行」といった趣味の問題にすぎないとして片付けられてしまいがちなのは、僕が思うにはこれらを唱導する側にも原因があると思っている。簡単に言えば、いちいち自分たちのやることを宣伝するからなのだ。そういう、出版業界を舞台にした活動家みたいな人々は、いつまで自己紹介のような本を書き続けるつもりなのか。

そもそもプロパガンダやキャンペーンなど不要であるはずの学術研究において、どうしても学界内でのヘゲモニー掌握だとか学内政治だとか、あるいは出版社との人間関係といった、学術研究と切り離して議論はできないにせよ、しょせん必須でもなければ本質でもないことがらに拘泥するからこそ、いちいち自分たちのやることに「フェミニズム」だの「ポストコロニアル」だのというレッテルを自分たちで貼りつけて宣伝してしまうことになる。

でも、たとえばサイードは自らを「ポストコロニアルな批評家」などと任じていたとは思えない。あれほど政治的な内容の批評を続けていながら、彼にはそういう見識があったからこそ、いまでも十分にインパクトのある著作を残しているのだと思う。そして、出版業界の販促においてバカにも分かりやすいレッテルを貼り付けたような本を出しまくっている人々の著作は、確かにマスコミのように無知無教養な学卒集団にはネタとして受けるから取り上げられるであろうが、しょせん本当の思想的なインパクトなどないので、さっさと消費されて終わるし、読んだ人々はせいぜいアフィリエイトの書評ブログにカスみたいな感想文を書いたりアマゾンの劣悪なカスタマー・レビューを書くのが関の山で、真に人類の叡智や社会を進展させるようなものは何も生まれない。そうした著作を次から次へと消費するだけの、あの「編集工学おじさん」みたいな連中がどれほど読書家みたいなものとしていようと、彼らはしょせん消費マシンにすぎず、彼らの文章なり生き様からは犬のウンコていどのものすら出てこない。まったく、生成 AI 以下である。

本気で世の中、あるいは読み手に自分たちのアイデアを実質的かつ効果的に伝えたり実装したいと思うなら、われこそはフェミニズム科学哲学者なり、ポストコロニアルな哲学者なり、などと馬鹿げた自己宣伝をするのはやめて、端的にフェミニズムやポストコロニアルな観点を適用した成果を出すべきだ。

これらと同じく、このところ「西欧中心主義を排す」だの「西洋史観がどうの」などと、逆張り芸人みたいな著作を書き散らして思想家を気取っているような人間も多いが、僕に言わせればそんなものはいまや小学生並の知識でも言えることなのだ。真に重要なのは、口先だけで西洋批判を繰り返すのではなく、それこそグローバルで独自のアプローチや観点を備えた成果を出すことであり、どこかの三流大学の学長みたいに雑な歴史の本を乱造することなどではない。

あと、ベイトソンだとかコンラート・ローレンツとかを使って「理系 vs. 文系」とか「自然と文化」とか「発生論的説明と規範的説明と記述的説明」とか、要するにおなじみの科学と哲学の融合だの止揚だのというお手軽な話も、それでやってみて成果が出てからの話だと思うんだよね。なので、こうしてたびたび告知しながら具体的な中身を僕が書かないのも、一つずつ項目を洗い出して自分なりに成果としてまとめることを先にやってるからなんであって、こんなもん教科書を書くなら当然の作業だ。というか、いまのところは中断していて、先に仕事で制作している「内部規程と個人情報保護のテキストを総合したマニュアル」という、恐らく上場企業でも作ってないようなレベルの冊子をまとめているので、こちらを来年かけて完成させてから教科書に手をつけることになる。もちろん、これも教科書と言えば教科書だが、こちらはお勉強のためなんかじゃなくて、僕が役員からアルバイトに至る全ての人材に期待する基礎知識であるから、もし俺に人事権があったらこれを学ばないようなやつはその場でクビだというくらいの、プライバシーマークを持ってる会社なら当然の素養としてまとめている。

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