Scribble at 2020-11-17 08:38:24 Last modified: 2020-11-17 08:59:37

古代と一口に言っても色々と地域や時代区分の違いがある。差し当たり、メソポタミアと呼ばれている文明が起きて発展した時期に着目すると、シュメール、バビロニア、アッカド、ヒッタイト、アッシリアといった地域集団の制度なり文化なりを述べた文章や情報に行き着く。中でもアッシリアは、現在は "Assyriology" と呼ばれる専門の科目として成立していて、いま関連する情報を色々と眺めている。ただ、日本では相変わらず書物の要約やコピペ記事が大半を占めていて、学部時代に歴史を専攻したという人物によるページも僅かに見つかるが、それ以外の全てはウィキペディアの量と質を超えるものではない。ちなみに、よくウィキペディアを気楽に素人の寄せ書きと言って冷笑する人々はいるが、そういう人々がウィキペディアを超える量と質でオンラインに論説を公表していた試しはなく、なるほど《相対化》なり《批判的精神》としては傾聴に値するものの、僕はそういう人々の冷笑そのものを常に相対化している。

恐らく、アッシリアについてまとまった分量の(日本語で書かれた)論説を読むなら、J-Stage で『オリエント』のバックナンバーを探すのがよい。僕が見た限りでは、いわゆる「歴史サイト」と呼ばれるものにロクな文章はない。たいてい、山川の教科書や参考書からの引き写しで、中学生にでも書けるような WELQ 級の文章しか載っていない。

山のように雑な文章ばかりが散乱している状況はどうにもならず、その状況自体が、俺も、わたしもできると素人に思い込ませて、次の新規参入を動機づける。圧倒的な知識と経験と才能による文書が書籍にすら存在しない状況では、こうした放埓を食い止める社会的な力はない。法学で言う「基本書」と言えるような書籍なりウェブサイトが(できれば複数)あればこそ、オンラインの素人歴史ファンによるクズを一掃して、アッシリアについて知りたければこれこれを読めと言えば済むようになるのだ。《権威》には、そういう社会的な無駄を縮約する効果もある(昨今は無駄や過剰が経済を回すという決め台詞を見かけなくなったが、セゾン=博報堂文化が花や飾りし頃の吉本隆明や糸井重里の文章をせっせと読んでいたお立ち台ギャルや慶応・青学の学生は、今では何をしているのだろう。必ずしも無駄や過剰は本質的に悪いものというわけではないが、彼らの理屈は広告代理店的な短絡が過ぎた。もっとも、その当時に経済や社会科学の素人が気づいたとしても、どこまでやれたのかという気もするが)。

なお、アッシリアについて書かれた素人の文章には、上記のような受験参考書の劣化版みたいなものだけではなく、聖書の記述に関連するという理由で宗教家(敢えて「クリスチャン」とは言わないでおく)が書いたページも数多く存在している。もちろん、彼らの多くは宗教的な動機でものを書いており、歴史学や考古学という観点を厳密に維持することは無理だし、もともとそのつもりもないであろう。よって、これらも大体は一括してゴミ箱へ投げ捨てる方針の研究プログラムにコミットしても大過はないと信ずる(強調するが、彼らの信仰心なり論説を公表する熱意を馬鹿にしているわけではない。単に、人文・社会科学としての歴史学や考古学は聖書研究の証拠集めをする学問ではないと言いたいだけだ)。

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