Scribble at 2024-07-19 20:35:32 Last modified: unmodified
色々な報道媒体の記事へ無料でアクセスできた頃は、どういう話題についても New York Times やら Washington Post やら Guardian やら Le Monde といった世界中の媒体に掲載されているページの URL を掲示板や SNS に貼り付けて投稿すればよかった。でも、それは自然なことでもなければ当然のことでもないわけで、ウェブ・コンテンツが無償で誰でもアクセスできるということ自体も、それは必然ではなかったのだと言いうる。したがって、誰かが投稿なりコメントなりで貼り付けた URL をクリックしてもページへアクセスできない(あるいは Financial Times や Times のように、非常に高額な購読料を払わないといけない)という場合に、その事実をもって他人が検証できない記事を元に書いている不当な議論だと文句を言えるかどうかという問題がある。
もちろん、自由経済だろうと社会主義だろうと、経済の原則から言えば、有償で契約した人だけがアクセスできるという契約内容のコンテンツに、契約してもいない者がアクセスできないからといって、それを「不当」だとか「不適切」だと非難することはできない。金を払わなければ読めないというのは、そういう契約のサービスであれば、そっちの方が契約社会では当然であり自然だからだ。もちろん、多くのオンライン・メディアが提供しているように、コンテンツへのアクセスを「プレゼントしてあげる」権利というものもあるため、そういう場合は契約していない第三者が記事へアクセスできるのだから、契約者だけがコンテンツへアクセスできることは、当然であり自然ではあっても、必然ではない。だが、必然ではないからといって、誰もが自由に有料で契約したうえでのコンテンツにアクセスできることが自然であるとか当然であるという理由で、paywall を障害どころか妨害であるかのように見做すことは許されないあろう。そんな態度やものの見方は、経済学や商法という観点から言えば、ほとんど「テロリスト」である。
よって、コンテンツの優劣を公正に比較して、適切な選択と競争が行われるためには、やはりスマートニュースのようなデータ・ブローカーを市場から「自然に」排除するような基準とか価値観が正しく醸成されなくてはならない。ここで言う「正しく」とは、コンテンツを制作している当事者にとって適切な待遇なり見返りがあるということだ。
しかし、そうは言っても空々しい印象を覚えないわけではない。なぜなら、このような議論は、しょせん新聞の購読料金や複数のオンライン・メディアを購読できる金持ちの理想論にすぎないという印象が拭えないからだ。すると、どうしても「払える人たちの階層で交わされる議論」、とりわけ学術研究者の議論がそうだが、非常に高額なジャーナルの購読料金を大学やシンクタンクや企業の研究所に払ってもらっている有利な人々の議論と、そうでない人々とのあいだに情報の非対称性が生まれ、それは要するに情報や学識に関する格差となる。その、かなり世俗的な影響の結果が、いまや東大生の7割が富裕層のガキだという事実であろう。