Scribble at 2026-04-14 10:26:01 Last modified: unmodified

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Big government ALWAYS means small citizenry. Diminished people then become further and further dependent on big government, which kills their incentive and liberty.

Zuckerberg Trashed Capitalism at Harvard

この記事は、ブランディングの専門家であるマーク・ルドフ(Marc Rudov)氏が、2017年にマーク・ザッカーバーグがハーバード大学の卒業式で行ったスピーチを痛烈に批判した内容だ。僕は、たまたまアマゾンで数百円で投げ売りされていた Intrabranding という Marc の本を読んで(どちらも「マーク」だが、ザッカーバーグは "Mark" だ)、なかなか面白いことを言うなと感心した。でも、マーケティングやブランディングにおいて insightful であるからといって、その人物の思想や議論がなんても優れていて参考になるとは限らない。僕にとって彼の議論は、その典型だと言ってもいい。

Marc は、ザッカーバーグが資本主義を否定して社会主義的な考えを助長しているとして強く非難している。特にザッカーバーグが提案した「ユニバーサル・ベーシック・インカム」、つまり政府が国民に無条件で現金を給付する制度について、Marc はこれを「生産者から吸い上げた税金で消費者にタダで給料を払うようなものだ(a “free” salary for takers, coming from the taxes of the makers)」と切り捨てている。

Marc の主張によれば、ザッカーバーグ自身が何十億ドルもの資産を築けたのは、リスクを取り、自由な競争が行われる資本主義の仕組みがあったからこそだ。それにもかかわらず、次世代のリーダーとなるハーヴァードの卒業生たちに向かって、誰もが新しいことに挑戦するための「クッション」を国が用意すべきだと説くのは、起業家精神の本質である「自己責任」や「困難への挑戦」を否定する甘い考えであると指摘する。さらに Marc は、ザッカーバーグのような富豪がこうした主張をすることを「偽善的」であると見ている。富を再分配すべきだと本気で信じているのなら、自らの資産をすべて手放して共同体で暮らすべきだと皮肉り、こうした政策は結局のところ政府の肥大化を招き、人々の自立心と自由を奪って貧困を拡大させるだけだと警告している。

結論として Marc は、成功を収めるためにはリスクやストレス、犠牲を伴う現実を受け入れ、逆境を乗り越える力を身につけるべきだと助言している。政府からの施しやお情けを期待させるような言葉は人を「敗者」にする教えだ。そんなものよりも、ミルトン・フリードマンが説いた「タダ飯など存在しない」という原則こそが、卒業生たちが心に刻むべき真実であると締めくくっている。ここまでが、Marc の議論の概要だ。

しかし、このようなリバタリアンに特有の自己責任論は、簡単に福祉国家の否定につながり、winner takes all の弱肉強食社会を待望することになる。しかし、実際には彼らをはじめとしてアメリカのエスタブリッシュメントは貧民や最貧国の人々に比べて、政情が安定している国に生まれたり、あるいは親の経済力や教育水準などの「親ガチャ」や「国ガチャ」による利益を生まれたときから得ている。確かにユニバーサル・ベーシック・インカムは過激な主張であるかもしれないが、だからといって社会政策や社会保障としてのセーフガードまで否定しかねないリバタリアンの議論は、自分たちがどれほど有利な生まれ育ちで成功を得たかについて反省がない、ただの「梯子外し」にすぎない。僕が、日本のように豊かで政情が安定した国に生まれて、それなりに贅沢な生活ができた家庭に育ち、大学院にまで進んでこれたのは、もちろん僕が有能でイケメンだからでもあるが、初期条件(given)は運であるとしか言いようがない。もしガザ地区やザンビアに生まれていたり、いや日本であっても親がインチキ宗教に献金するような家庭であったら、いまとは相当に違う悲惨な人生であった可能性が高い。

Marc は記事の中で「リスクと苦難こそが成功の源泉だ」と説いているが、ハーバード大学の卒業生やザッカーバーグのようなエリート層にとって、その「リスク」は一般市民が背負うものとは質が異なる。彼らの背後には、失敗しても路頭に迷わないだけの家庭の経済力や、高度な教育、強力な人脈という目に見えないセーフティ・ネットが最初から存在しているのだ。これを無視して、「すべては個人の責任だ」と主張するのは、安全な高台から泥沼であくせくしている人々に向かって、「なぜ君たちは登ってこないのか」と説教するようなものだ。僕が保守の思想家としてリバタリアンの議論を金持ちの後知恵にすぎないと切って捨てるのは、これが理由である。そして、彼らリバタリアンは彼らの言う「自由」を国家によって実現し、生産手段として管理・維持しようというのだから、まさしく彼らリバタリアンこそが、人々へ「自由経済」や「自由社会」という札を付けただけの出来レースを強要する国家社会主義者なのだ。

このような「梯子外し」の論理は、自らの成功が純粋に自分の才能と努力だけで勝ち取ったものだという、ある種の特権階級の錯覚や傲慢さや自己欺瞞に支えられている。そして、リバタリアンや最近の流行である加速主義者の多くはサイコパスであるため、自らの思考についての反省や正確な理解ができない認知能力、つまりは脳の傾向(敢えて「欠陥」や「病気」ましてや「精神異常」とは言わないでおくが)があるため、彼らの議論は無自覚であるがゆえの力強さや自信に満ち溢れているのだ。IT 企業の経営者などがあれだけ自信満々に事業や経営について持論を語るのは、投資家へのポーズとして、あるいはプロザックの常用者だからというだけではなく、実際にサイコパスだったりするからなのだ。しかし、成功者が自分の力だけで成功したと信じ込むことは、社会的な連帯感を損ない、不可避的な原因によって恵まれない人々への冷淡な視線を生む原因となる。

Marc 氏が批判する「クッション」とは、実はザッカーバーグのような人々が生まれながらに持っていたものであり、ユニバーサル・ベーシック・インカムような提案は、その「クッション」を制度としてすべての人に民主化しようとする試みとも解釈できる。セーフガードを「怠惰を生む甘え」として一律に否定する議論は、社会の土台そのものを掘り崩し、結果として一部の勝者だけが富を独占する「勝者総取り」の不健全な社会を正当化する。よって、Marc の主張は「公平な競争」を求めているようでいて、実はそうではなく、単に「既得権益を持つ強者の生存戦略」を美化しているに過ぎない。客観的に見ても、初期条件の格差を無視した自己責任論は、社会政策としての妥当性を欠いていると言わざるを得ない。

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