Scribble at 2021-08-06 16:04:40 Last modified: 2021-08-06 16:07:09

一週間のあいだに2回か3回に割り振って筋トレを続けている。間食をするので体重は殆ど減らないのが悲しいけれど、少しずつ筋力は上がってきているようだ。

こういうトレーニングをしているときに、常にというわけでなくとも留意していることはある。僕が高校時代に陸上部へ少しの間だけ入っていた話は何度か書いた。そこでは 200m と三段跳びを専門にしていたのだが、同じく三段跳びを専門にしていた先輩がアップやダウンあるいは他のトレーニングやストレッチをしている様子を眺めていると、傍目からでも黙々と機械的にこなしている様子が分かった。常に同じ体の動かし方をしていて、練習だからといって闇雲に体を習慣のように動かすのではなく、スクワットの1回でも常に初めてやる動きのような慎重さがあった。練習でも、競技会のような緊張感をもって取り組めば、いざ本当の競技会では逆に練習と同じ気楽さで取り組めるから、失敗したり変に上がることもないという。

もちろん、そういうことを繰り返すだけで記録が延びるわけでもないしオリンピックに出られるわけでもないのは明らかだが、しかし確実に当人にとっては僅かでも効果がある。こういうセリフを、しばしば才能がない人間の自己催眠だと言う向きはあろう。しかし、スクワットの1回でも当人の身体に何らかの些細な影響があるという事実は、どれほどの冷笑家でも否定はできない。よって、陸上競技の至上命題が金メダルの他にはないという価値観が誰にでも妥当するわけでもない以上は、1回のスクワットや腹筋を「無意味」と断じる根拠などないだろう(だからといって、哲学のクズみたいな通俗本を読むことにも一分の理があるという言い訳を、いたずらに許容するわけでもないが)。

考えてもみれば、一生を80年(約25億秒)とすれば、腕立て伏せ1回に当たる3秒間は人生の約8億4千万分の1を確実に消費している。非常に矮小とすら言える人生の一部だが、しかし、これもまた確実なこととして、その3秒間をデタラメに消費するのとしないのとでは、約8億4千万分の1だけ馬鹿げた人生を送ったかどうかの違いになる。そして、オリンピックに出場するような選手でない僕らのような陸上部の高校生でも実感として分かっていたことなのだが、ヒトはその3秒間を慎重かつ真面目に体を動かすか、それとも習慣に引きずられるだけの軽率な振る舞いをするか、決断して、実際に体をどちらの方針で動かすかコントロールできるものだ。そして出鱈目なトレーニングをしていると、実際に怪我や故障することだってある。

よって、殆ど1年も一緒にトレーニングしていないのだが、その1年上の先輩からはトレーニングでの心構えのようなものは教わって、いまでも思い出すことが多い。そして、これを「精神論」を言うのは簡単なのだが、果たしてそうだろうかと思う。僕が思うに、「精神論」や「精神主義」などと言われて侮蔑される発想や発言は、実のところヒトの心理や生理について殆ど知らず理解しようともしていない無知無教養な連中の御託にすぎず、よって「精神論」どころか〈論(logic, argument)〉という文字を使うに値しないウンコ話(bullshit)の類だろう。

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