2018年03月19日に初出の投稿

Last modified: 2018-03-19

テロと長引く不景気で、疲れもでてきたのか、「ゆとり」とか「無用」とかいった「悟り」めいた言葉が持て囃されているようである。(心)まずしい私にはそういう贅沢は許されず、昔ながらに、「本気」・「真剣勝負」で孤剣を引っさげて生き続けている。従って常に生死の世界を彷徨っているためか、「おんな・こども」という存在が限りなく尊く且ついとおしく思えるのだ。戦いのあとの平和、砂漠のオアシスのようなもの、と言ってもいいだろうか。 こういう私に、真剣に応えてくれる小説、いや口幅ったいが「私」を映し出したような小説が『風と共に去りぬ』であった。私の与えたタイトルは「読解」であるが、実はわたし自身をこの小説に読み取っているのである。 Gone with the Wind、まるで唸る(Wの音)のような風の吹くなか、弔鐘とも除夜の鐘とも紛う響き(ゴーン)、大衆の一員でもある私には、「大衆小説」という蔑称も気に入っている。

読解『風と共に去りぬ』 (III)

映画の『風と共に去りぬ』を連れ合いと観た。僕はたぶん初めて観た筈だから、これまで南部のアメリカ人の気風や黒人奴隷制度あるいは南部の文学に少し関心をもっていたため、良い意味でも悪い意味でも、色々な点について興味深く鑑賞した。そして、自然ななりゆきとしてウィキペディアの関連する記事を眺めたり、幾つかの批評を読んだりした。上記のような文章は、いかにも人文系の散文ではあるが、結局は何が言いたいのやら意味不明な当てこすりや自虐的感傷に見える表現が散見されて、あまり読む気はしない。高校の現代文の教師なら赤点を付けるような支離滅裂の文章だが、これはこれで書いているご本人は洗練された文体だと思っているのだろう。

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