Scribble at 2023-08-25 09:32:10 Last modified: 2023-08-25 09:43:17

哲学に興味があるとか関心があると自称する人はいるし、このところ「増えている」などと軽率なことを言う出版業者もいるようだが、僕はそういう根拠のない話は信用していない。もちろん、信用していない理由は根拠がないからであり、何か偏見なり先入観から言っているわけではない。たとえば、哲学はすぐれた知性をもつ者だけが興味を持つ学問だから、凡人が簡単に興味や関心をもつわけがないといった偏見は論外だろう。僕の考えでは、哲学とは或る特定の関心や脈絡でものを考えることであり、そういう営為を人がやるために学歴や職位やイケメンかどうかは関係がない。もちろん人種も性別も年齢も関係ないのであって、認知科学や脳神経科学として最低限の「知性」は求められるだろうが、その知性は脳の何かの病気や障害を負っているわけでもなければ、誰にでも認められる能力であり、そういう能力さえあれば哲学を為し得るチャンスが誰にでもあると思う。また、哲学とはそういうものでなくてはならないというのが僕の「哲学」に求めている観念だ。これは、いまでこそ "philosophy for everyone" といった欧米のキャンペーンなどで似たようなアイデアが知られるようになっているけれど、かような欧米で人気のある草の根左翼的な下心とは殆ど関係のない観念である。

しょせん、欧米や日本の一部で高額な参加費用を集めてやってる「哲学イベント」なんてものは、金持ちの道楽にすぎない。たとえば、イギリスで開催される "HowTheLightGetsIn" のような哲学イベントは参加費用が平均して£140(26,000円)くらいかかる。デネットやチャーマーズやペンローズやピンカーといったお歴々を見に行きたいミーハーにとっては安いかもしれないが、そんなものは哲学と何の関係もないし、実際にあのイベントで話されたことから重大な成果がもたらされたなんて事実は一つたりともない。あれはオクスブリッジや LSE にいる金持ちのイギリス人の学生や卒業生が集まって哲学っぽいお喋りを繰り広げる暇潰しなのだ。田舎島国の人間がやることなんて、ヨーロッパだろうとアジアだろうと大同小異というわけである。

"philosophy for everyone" のようなキャンペーンの掲げている「哲学」という観念が僕の考えている観念と決定的に違っている点は、要するにああしたキャンペーンをやっている人々は結果平等を基準にしているということだ。早い話が、自分たちの主催するイベントに参加する人たちにとっては "philosophy for everyone" だが、参加しない人たちのことは全く考慮されない。これらに加えて、僕が「ケアの哲学」などと称してイベントを開きまくっている現象学の学生とか、「AV女優の分析哲学」みたいなクズ同然のトークを都内でやってるプロパーとかを無意味どころか錯覚にもとづく愚行だと言っているのは、彼らのやっていることは哲学どころか哲学イベントですらない、ただのビジネス(関連する出版物の販促にすぎない)だということである。そしてその自覚があるならなおさら悪質というものであろう。

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