Scribble at 2021-04-10 09:57:04 Last modified: 2021-04-10 10:06:10
スマートフォンに MP3 を入れていて、たまに聴いているのが、John Coltrane のようなジャズと、上記のグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)だ。Internet Archive にもサウンド・ファイルはあるが、このサイトは協力者から寄せられた音源などをまとめていて、テキストも一緒に公開している。宗教活動の一環だからか、このようなサイトは探せば色々ある。宗旨としての正統性について僕は判断できないため、もしかすると所持しているサウンド・ファイルの中には「異端」なり「カルト」のものが混じっている可能性はあろう。というか、音楽性としての是非も分かっていないから、本当のところ殆ど理解せずにメロディの好みだけで聴いていると言うべきである。
もちろん、それだけにとどまっていてはいけないという自覚はある。それは、コルトレーンの音を理論の理解もなしに聴くようなものだからだ(よく、偏見があるからだろうか、ジャズ・プレイヤーの来歴を小汚い道端で拾ったサックスで演奏してたような貧しい黒人少年のアメリカン・ドリームみたいに理解してる人がいるのだが、コルトレーンも学校で音楽理論を学んだ一人だ)。こういう、切っても切り離せない脈絡や関連のある特性(歌詞の意味ゆえに決まるアクセントとか発声とか)をないがしろにしてメロディだけ心地よければいいなどと言っていては、そのうちオウム真理教のテーマ・ソングや軍歌を周りでヘビー・ローテーションよろしく繰り返されているうちに「風景」として違和感のない曲となり、刷り込まれては無自覚な人物として育つわけである。それは、無自覚ゆえに罪はないが、無自覚であることのリスクを知る機会が大人として得られたときには、振り返って反省する責任はあろう。たいていの凡人にとっては常に遅すぎるがゆえに若者から批判されるしかないのだが、それが結局は「大人」というものである。
ということで、まだまだ学ぶことは娯楽に関わることですらたくさんある(実は、会社の会議やオンライン研修ビデオの収録に使えるかもしれないという動機で、能や落語の発声の勉強すらしようと思っていた時期がある)。