Scribble at 2021-06-04 10:34:55 Last modified: 2021-06-04 10:35:41

日本はジャズのファンが多い国らしく、ジャズ・ミュージシャンやジャズ・バンドにとっては良い「購買層」が確保されていて、アメリカや西欧のミュージシャンらがライブで日本を訪れる機会も多いという。しかし、その割にジャズの本と言うと愚にもつかない入門書が圧倒的に多いし、また一部の有名人について(はっきり言えばマイルス・デイビスの)判で押したような内容の本が何冊も出ているにすぎず、理論や評伝あるいはジャズを取り巻く社会についての研究書も圧倒的に貧弱だ。

特に、ジャズの歴史とは切っても切り離せない2つの大きなテーマである、人種差別とドラッグについて、まともな本が翻訳ですら全くないのは、異常だと思う(ドラッグについては「電子本ピコ第三書館販売」とかいう、まともな出版社なのかどうか確認の手間をとる必要すら感じない名前の版元から翻訳が出ているらしいが)。要するに、曲さえ喜んで聴いて、しょーもない屁理屈をあれやこれやと語っていれば気が済むのかという気分にもなる。

もちろん、文化や芸術などの社会的な背景とか影響関係について学んだり語ることが作品を鑑賞したり〈使う〉ための不可欠な条件だと言っているわけではない。曲そのものの良し悪しだけで聴いていて何が悪いのかと言えば、もちろん特に反論の必要は感じない。しかし、殆どそういう人しかいないという状況は異常であり、逆に何らかの誘導なり制御なり支配を受けた結果ではないのかと思う。

普段はバカが口にする「多様性」とか「ダイバーシティ」を鼻で笑うような記事を書いてはいるものの、もちろん全く画一的で規則的なだけの状態が〈最善〉だと思っているわけではない。人の生きる社会だけに限らず、なんであれ〈崩壊〉や〈堕落〉への道筋もまた、規則的でありうるからだ。アニメ的な刷り込みを持つ人が多いために、悪いことは必ずカオティックに制御不能な仕方で推移すると思い込んでいる人もいると思うが、これまでの歴史や考古学についての勉強から僕が学んだ限りで言うと、そう言える根拠は全く無い。「逆だ」と言うのも一つの極論ではあるが、少なくとも多くの事績は制御可能な状態を敢えてか愚かさのゆえに放置して、そのままあたかも自然現象のように破滅へと進んでいったように思える。

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