Scribble at 2021-06-21 15:55:04 Last modified: 2021-06-23 17:27:00

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沈みゆく英国を建てなおした<鉄の女>マーガレット・サッチャー。その鉄の意志の向こうに、彼女はどんな涙を隠していたのか。そして、それを支え続けた夫の存在とは―。これは偉人伝ではない。信じるもののために力の限り戦い、傷つき、老いて戦場を去ろうとしているひとりの女性を描く感動の物語。(C)2011 Pathé Productions Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

Amazon Prime で少しばかり眺めてみた。メリル・ストリープは相変わらず役づくりに気合いが入っている。最初は誰が演じているのか、分からなかったほどだ。そして、意外にも認知症を患った2000年代の初頭という時点からの回想として生涯を描くという内容である。このような筋書きは、イギリスの評論家には認知症の患者を侮っていると酷評されたらしいが、僕は非難すべき脚本だとは思わない。逆に、認知症や障害をノンフィクション作品やドキュメンタリー番組で散見されるように「贈り物」だの何のと表現することは、当人には気の毒なことだが、僕にはセンチメンタリズムだとしか思えないからだ。

抗いようのない事情で障害を被ったり認知症を患うという事実は、僕ら自身の意思や能力とは関係がない原因や偶然によって起きるからこそ、どうすれば起きないようにできるか人類の知恵が試されるのだ。もし、特定の疾患や障害が本人の生活態度や「業」のような理由で起きるなら、それらは避けようがないどころか、本人が被って当然の報いだという話になってしまう。起きる可能性があれば、それはいつか誰かに起きるという言い方もあり、どう努力しても有限な能力しかない生物としては避けられない限界や制約がある。僕は毎日のように運動をしているし、連れ合いのおかげで若い頃よりも野菜を多く摂る食生活にもなり、睡眠時間も増えているけれど、それでも癌になる可能性は大いにあるし、こうしてタイプしている間にも心室細動が起きて死んでしまうかもしれない。

しかし何にせよ、その状況において暮らし、生きるということは、本人にとってはまさしく〈実務〉と言うべきものであろう。もちろん自画自賛でもしない限りは、やっていられないということもあるとは思う。それは、ちょうど営業マンが「多くの人達と触れ合ってどうのこうの」と仕事のやりがいについて話すのと同じであり、目くじらを立てて批評するべきことでもあるまい。そうとでも思わなければ、やっていられないということは、凡人であればこそなおさら、誰にでもあることだ。言わば、この30年くらいのあいだに世界中で流行してきた「自己啓発」なんてものは、その手の自己催眠によってしか維持できない、"bullshit jobs" が増えてきた証拠とも言える。当然のことながら、窮地に立っている人々にとって対処すべき様々な障害や困難を克服したり解消することは、やらなくて済むならやらないほうがいい実務と言うべきだろう。誰が喜んで、両目の視力なしで事故に巻き込まれかねない街中を歩きたいと思うだろうか。

僕は老眼となって、老眼鏡を一日中かけている生活を送るのが当たり前になったことは驚きの一つだ。しかし、それよりも老眼となったからなのか、距離感が劣化しているように思えるのが残念ではある。たとえば、部屋を歩いている途中で、家具や他の物品に足や手の先あるいは腰をぶつけることが多くなった。また、トイレに入ったときなど、それまでは何気なく手を延ばしてスイッチを付けていたし、トイレから出るときは手を後ろに延ばしたままスイッチを見なくても(こういう姿勢を「後ろ手」と呼んでいたが、手を後ろに回すという意味はあるにせよ、殆どの場合は捕縛されたときの犯人が縄で手を縛られるような格好のことなので、もう使わなくなった)押せていたのが、見ずに済ませていたことすらできなくなっている。なので、単に老眼という視覚の問題だけではなく、何かのタイミングを測ったりする感覚も鈍くなったり、あるいは若いときよりも遅くなったり早くなったりしているのかもしれない。

主観とか自分の感覚というものは、もちろん生体機能のはたらきであり結果であるからして、自分がどう自覚しているかによらず、生理的な機能の低下や向上という条件で客観的なパフォーマンスは変わる(その最もよい例が、認知症の患者の主観ではないか)。よって、その人にとっての〈セカイ〉とは当人の思い描くような内容で完結しているというセンチメンタリズムを振り回して文学なり社会学を語るのはいいとしても、それは無人島、あるいは外界と隔てられて完全介護の自室だけで好きにすればいいことであって、事情を理解していない他人と共有している環境では(その事情を知らない我々からすれば)通用しない。そして、完全に他人の事情を無視できる状況に陥っているわけではないという自覚がある段階では、自分の主観が現実のパフォーマンスとしては不都合な結果を招いていると知りうるのだから、補正したり修正したり予防したいと望むのも当然の話であろう。

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