Scribble at 2022-06-20 15:18:50 Last modified: 2022-06-21 09:32:56

成功者の逸話はすべて生存バイアスである。そういう逸話は、これまで経験談をまとめたビジネス本や、受験体験記、あるいはまさしく「生存」バイアスと言える癌の闘病記に至るまで、夥しい数の本が印刷されて販売され、そして残念なことに読まれている。SDGs などと言うが、この理念に反すると言えるような紙とインクと電気と人件費の無駄遣いが世界中で横行していると言えよう。

これらの体験談がバカげた結果論であり、人を迷妄へ導くものでしかないことは明白である。その明らかな証拠として、「東大生を3人育てた母の手記」といった内容に類する駄本は数多くあっても、「『東大生を3人育てた母の手記』を読んで東大生を育てた母の手記」という内容の本が、これまでに1冊も出版されたことがないという事実だけで足りるだろう。社会科学として厳密な証拠を手にしたいというのであれば、更に「『「東大生を3人育てた母の手記」を読んで東大生を育てた母の手記』を読んで東大生を2人育てた母の手記」だとか、「『東大生を3人育てた母の手記』と『「東大生を3人育てた母の手記」を読んで東大生を育てた母の手記』を読んで東大生を育てた母の手記」だとかが、実際に出版されるかどうかはともかくとして、どこかにブログ記事なりフォーラムや SNS の投稿として公になっていないといけないだろう。それも統計的に有意な数でだ。

社会科学のスケールで考えると、そのようなノウハウ本や体験談を出版することには、既得権益をもつ人々や先行者として成功した人々、そしてまさしく出版社にとっての利点がある。なぜなら、そういう猿真似で誰も成功などできないのに、多くの人が猿真似ほどはいかなくても参考にしようとするだけで世の中は攪乱され、ものごとを正確かつ厳密に考えようとする人の意欲を削いでしまうからだ。そして、当たり前のように失敗しても、自らものを考える力が通俗本によって削がれてしまい、寧ろそういうものの中で〈本当の理屈〉を語っている本があるかのような錯覚をもたらす。要するに、或る宗旨の中で宗派が分かれるように「これじゃない」という不安だけが募り、ノウハウ本に依存するようになってしまうのだ。まだ自分が〈本当に正しい成功への方法〉を見つけていないだけであって、どこかにそういうことを教えてくれる人がいたり、そういうものが書いてある本があるんじゃないか。それを先に読んでおかないと「負ける」というわけである。東大に入らなければ敗北であり、都内の上場企業に入らないと敗北であり、同期よりも先に部長とならなければ敗北であり、偏差値70以上の大学の学生クイーンを妻にできなければ敗北であり、銀座のキャバ嬢を愛人とできなければ敗北であり、子供を慶応の幼稚舎へ入れられなければ敗北であり、青山霊園で600万円の区画を確保して親を葬らないと敗北であり、自分の最後は聖路加病院で迎えないと敗北である、というわけだ。都内のギラギラしたガキの人生設計なんて、これと五十歩百歩だろう。あるいは、せいぜい途中で脱サラして北海道にでも行ってパン屋を営むとか。

世の中で生きる人々が、これほど幼稚ではなくとも一部に似たような強迫観念を抱えている限り、かような本は永久に売れ続ける。そして消費者が勝手にそういう思い込みで青い鳥を探し続ける限り、〈本当の成功の秘訣〉だとか、〈本当にわかる哲学入門〉とか、その手のクズみたいなものを続々と印刷し続ける日本の教育評論家や経営コンサルや哲学教員や出版社も安泰というわけである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook