Scribble at 2020-09-17 11:20:16 Last modified: 2020-09-17 12:52:19
よく、アメリカの若者は高校を卒業するまでに自分で学費を貯めて云々とか、"independency" がアメリカ人のソウルだとばかりに称揚しては、それに比べて日本の若造はスネかじりでどうのこうのと、偉そうに小言を並べてきたものだった。でも、景気が悪くなればアメリカでもスイスでもニュージーランドでも、結局のところ《凡人》は画一的に同じことをするのだ。それが単なる生物の一個体として生まれ育ったヒトの生態というものであろう(よって、凡人とは言いがたい特別な才能がある人でも、ヒトであるからには逃れられない生理的な限界とか生得的な行動特性というものがある)。
なので、いつも僕は不思議に思うし難しさを覚える。つまり、それほど画一的であれば、何らかの集団的で統計的なスケールでは社会科学における規則性がつきとめられたり、仮説としてそれなりに強力なものが打ち立てられてもいいはずなのだが、社会科学というものは(もちろん経済学も含めて)雑でセンチメンタルな《読み物》や《政治的な思惑によるプロパガンダ》の域を出ない。社会正義や人民の富について威勢の良いスローガンを書籍の帯に書き続けていながら、はっきり言って紙くずを毎年のように量産しているだけの分野だ。(もちろん、自然科学の成果も大半はつまらない算数の話や些事としか言いようがない研究のレポートだったりするわけだし、哲学に至っては大半の人々に捕捉すらされていないだろう。)
結局、こういう事例でも言えるように、せいぜい自分が知っているか体験したスケールの歴史でしか社会「科学」も集団や人の特性について語りえないということなのだろう。しかし、それでは「科学」の名に値するようには思えない。やはり社会学や経済学や政治学は、「社会エッセイ」とでも表装替えしてはどうか。