Scribble at 2026-04-12 10:44:58 Last modified: 2026-04-12 15:00:05
いまどきの大学院生は実感がないかもしれないが、僕はいちおう前世紀からインターネットを利用しているし、それこそ「ブログ」というものが普及し始めた頃からウェブでの様子を眺めてきていて、仕事でも WordPress をバージョン 1.0 にもならない頃から使っている一人だ。日本に来たことがある Automattic のマットと直に話したことがある一人でもある。
そういや、15年以上も前から日本での普及に尽力してこられた Nao(高野直子)さんは、例の WP Engine vs. Automattic(というより「WordPress の所有者」マット個人と言うべきか)という騒動においてマットを支持できないとの理由で Automattic を退職されたようだ。こういう事実も、企業としての Automattic について時代の流れを感じさせるものがある。マットもそれなりに経営者としての焦りを感じているのだろう。
いまやウェブサイトの制作プラットフォームは、生成 AI による「ノー・コードのコード吐き出し」という気違いじみた実装にトレンドが移行しつつあり、セキュア・コーディングどころか CSS すらまともに理解していない専門学校や中学の洟垂れ小僧どもが覆面クラウド・ワーカーを名乗って、上場企業のコーポレート・サイトまで手掛けていた事例すらあると聞いている(口座を開いてもらえない個人事業主が上場企業案件を受注できるわけないので、こういう人々へ実制作を丸投げしていたウェブ制作会社に責任がある。もちろん、ふつうの上場企業なら素性の分からない相手へ下請けさせるのは基本業務委託契約や NDA に反するであろう)。このような、いまや「WordPress 構築」を名乗って営業メールを送ってくる、SIer から脱サラした SE 崩れの個人事業主くらいしか手をつけないツールになり下がった状況で WordPress のシェアが維持できるとはとうてい思えないのだが、いちおう20年近くにわたって WordPress をプロのウェブ制作スタッフとして使い続けてきた者として、いくらかの感慨はある。
いや、話はそういうことではなく、もっと簡単だ。ブログというものが日本でも普及し始めてから20年近くが経つのだけれど、「知の公開・共有プラットフォーム」などと持て囃されていたのはいつの話だったか、結局は "publication" のメディアとして根付かなかったということだ。既に「ブロゴスフェア」なんて言葉を知っている人も少ないだろう。SNS などのソーシャル・メディアのユーザは減る様子を見せていないものの、ここで展開されているのは国家や王族や多国籍企業から名もなき個人や末期がんの患者に至るまで、しょせんは自意識プレイの広告・宣伝・自己承認欲求の捌け口にすぎない。「議論」だの「熟議」だのをやっていると錯覚しているか、自分たちだけの成果しか見ていない、おめでたい左翼やリベラルの諸君は、それこそいつもの自己欺瞞に陥っているだけだ。しかし、それはもちろん WordPress という CMS ツールだけに原因があるのではなく、そもそも "publication" のツールとはインターネットそのものだったと言ってよいからだ。そして、ご承知のとおりインターネットは情報公開のツールとして強力なメディアとなったわけだが、そこを「メディア」として真面目に利用している(少なくとも学術研究の)プロパーは非常に少ない。
したがって、ここ20年にわたって哲学プロパーや大学院生、いやアマチュアの人々なども含めて、何人かのブログで配信されている RSS を subscribe してきたのだが、Google Reader や Feedly だけでなく、WordPress をカスタマイズして RSS フィードの一覧サイトをプライベートで使っていた時期すらあるけれど、それらのサイトから僕が哲学者として得たものは、文字通り「ゼロ」であったと言いたい。たぶん、みなさんにとっても僕が運営してきた PHILSCI.INFO から学ぶべきことなどなかったと思っている人は多いことだろうし、これは別に他人をどうこう非難したり嘲笑するために言っているわけではなく、しょせん僕も含めて(京大やハーヴァード大学の教授であろうと)凡庸な人間の成果というものは、そのていどだという話でしかなく、卑下するようなことでもない。そうした平凡な成果の積み上げによってしか、それらを乗り越えるような「業績」は生まれないのかもしれないからだ。それは、物事を進展させる業績が学問であろうと技術であろうと芸能であろうと、それまでの経緯と無関係にゼロから生じるわけではない以上、前の世代が積み上げた凡庸な成果を後の世代が反面教師なり叩き台として眺めたり学ぶことで生まれるしかないからだ。
だが、それにしても凡庸で退屈だし、最近の哲学や思想についての議論はウンザリさせられる。たいていの出版物や映像は、既にマーケティングの影響を脱することができないパフォーマンスと化しており、果たして哲学する必要や動機や事情があるのか疑わしいような人々が、口先だけで何とかの哲学やら何とかの分析哲学やら何とかの現象学などなどを語り、そして古典的な著作物のイージーで軽薄な紹介や解説をしている。解説している人々も、そしてもちろん映像や本で眺めている人々にとっても、果たしてそれが何になるのやら。だって、あんたら哲学なんてする必要ないんじゃないかと思うような「読書家」にすぎないような連中がプロパーとして解説し、そして、いったい君たちは哲学を学ぶ必要があるのかと思うような人々が見聞きしているのだから、これが壮大なゼロ算術でなくして何と言えばよいのかと、哲学者であるおじさんは思うわけだよ。