Scribble at 2024-08-28 20:07:37 Last modified: 2024-08-28 20:19:55

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前にご紹介した垣内勇威氏の『デジタルマーケティングの定石 ― なぜマーケターは「成果の出ない施策」を繰り返すのか』(日本実業出版社、2020)については、これを題材にして「デジタルマーケティング」とやらの論説を書こうと思ったのだが、丁寧に読んでいると、ちょっとこれは難しいなと思って保留している。もちろん、理解できないという意味での難しさではなく、個々に学ぶ点があったとしても、かなり根本的なところで誤解にもとづいて議論している本を他人に推奨するような論説を公表すべきかどうか、僕自身の判断が難しいからだ。気に障るとは思うが、日本のマーケターが書く文章で、われわれのような学歴の人間が理解できないものなど(愚かすぎて「理解不能」という意味ならともかく)一つもない。

ということで、個々の論点ではなるほどと思えることは多いのだが、本書はとにかく最初から的外れなことを書いていて、学ぶに値するポイントを丁寧に拾い上げるように扱わないと、学ぶつもりで読んでいてすらウンザリさせられるからだ。ということで、学ぶべき点を紹介したくなったら論説として公開するかもしれないが、まずは冒頭部分についての批評だけ公開しておこう(以下の文章は論説の草稿をコピペしているので、「ですます調」で書いている。「本書」とは、もちろん垣内氏の本のことだ)。

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僕が本稿で垣内氏の話題を「デジタル・マーケティング」と括弧で囲んでいるのは、本書で展開されている議論は、デジタルであろうとなかろうと「マーケティング」の一部でしかないからです。僕がコトラーを初めとするマーケティング研究者の著作物から学んだ理解では、マーケティングというのはサービスやプロダクトの企画・開発から市場調査、製造・制作、在庫管理、流通、販促、広告、営業、効果測定、販売管理、そしてサービスの終了やプロダクトの販売終了という、ライフサイクル全体を統括する概念です。これは当サイトで落書き(Notes)や他の論説でも書いていることですが、日本あるいは海外でも、かなり多くの人々がマーケティングを単なる市場調査や販促のことだと矮小化して理解していることに(単なる言葉遣いの問題としても)違和感を覚えていますし、それから企業の役職者としても、マーケティングを担当すると称している人々の自意識なりアイデンティティが歪んだり矮小化していることには、いくらかの不安を感じています。特にサラリーマンというのは与えられた職責の範囲だけでものを考えたり動こうとするものなので、職責が狭く設定されてしまうと、もっと広い観点で業務や事業全体を理解しなくてはいけない人々が視野狭窄や部分最適化に走ってしまい、それは事業としても会社経営としても人材の育成としても良い結果にはならないと思います。実際、僕が所属している会社でも何人かの人材がマーケティングと称して Google Analytics の解析結果だけを経営会議で説明し続けたり、やれリスティング広告に先月は何万円使ったとか、そんな話しかしていないことに強い違和感を覚えていました。そして、本書の著者にも同じような違和感をもつので、敢えて「デジタル・マーケティング」(つまり、「彼が言うところの」という但し書きが付いた意味での、ということです)と表記しています。

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本書で展開されている議論として、ウェブ・コンテンツが「無料」で「無限」に配信できるなどというのは、企業経営の理屈から言えば学生並の暴論に近いと言えます。3万サイトを分析しようと10万のサイトを分析しようと、そんな結論は出てきません。わずか数キロバイトの HTML ファイルを公開しても、そこに何らかの脆弱性があれば攻撃された場合の被害は巨大になる可能性もあり、コンテンツや採用した技術によっては事前の検査やテストの工数、それから公開した後のモニタリングの工数は、社内で作業するとしてもそれなりのコストがかかります。正直、オンライン・サービスとしてのウェブサイトを構築したり運用するコストもマーケターは知っている必要があるわけで、このようなことを無料だ無限だと運営主体である企業の中で同僚や上司を相手に言ってみたところで、何の得になるのか分かりません。自分でコーディングやデザインできる人が有能アピールするためであっても愚かな言い方ですし、いわんや他人が動く仕事であれば不見識もいいところです。

そして、これはウェブのマーケティング(製品やサービスのライフサイクル全体を統括する、本来のマーケティング)を拝命しているなら誰でも知っている筈なのですが、いったん公開したウェブ・ページというものは、メンテナンスを加えて情報源(ソース)としての価値を維持するなり向上させないと、どちらかといえば「長期に渡って公開されている」という高評価よりも「情報が古い」という低評価の方が優先される傾向にあります。これは、ウェブ・ページの多くが結局は長期に渡って維持されずに、Google のインデックス・データの評価とは無関係に削除されたり場所を変えられたりする実態を反映しており、インデックス・データの価値がなくなって、検索結果にリストしてもアクセスできなくなっているという機会喪失のリスクを放置するよりも、古いページは評価を少しずつ下げていって、検索結果の上位から勝手に下がっていくように設定しておくほうが無難だからでもあります。よって、古いページでも “last modified” として内容を改めたと評価してもらい、インデックス上でも評価を更新しなおしてもらう必要があるため、放置してよいわけがありません。大量にページを作って放置しておけばインデックスの評価が上がるなどという理解は、10年以上も前の SEO 業者だとか、あるいはページのフッタに無関係な都道府県名を羅列していた愚かなランキング・サイトを運営していたインチキ中小企業などが信じ込んでいた、それこそ錯覚です。こんなことは、既に10年以上も前から「ディストリビューション」という不正行為の SEO として Google が対策を打っているのです。

しかし実際問題として、日本に限らず世界中のマーケティング担当者というのは、実態としてウェブ・コンテンツの運用どころか制作も低コストだなどと言ってしまったり考えている人が多いので、社内でもクリエイターやエンジニアから忌み嫌われる存在になってしまうわけですね。簡単に言えば、自社サービスの開発や運用に関わるマーケティング屋というのは「社内電通」になってしまっているのです。僕らのような、真の、というか学術的に言って正確なマーケティングの理論を理解している人間からすれば、本の著者としてなら暴論と評して脇へ置くだけで済みますが、こういうことを書いてしまう人材を現実に弊社の社員として採用する気にはなりません。実制作のコストをなんとも思っていない、本書に見受けるような思考を共有しているであろうセリフ(「品質やクライアントや売上のためなら納品日まで徹夜するよね?」みたいな)を平気で言うディレクターがこの業界には多くいて、クリエイターから絶大な(笑)不評を買っています。いまでこそストレートにサイコパスだパワハラだと言われますが、そういう偏った建前や、一部の利害関係しか見ていない正論だけで仕事ができる(そして、なぜかそれらの建前に沿った滅私奉公のような暴論は、労働法よりも優先されるわけです。彼ら社内電通としてのディレクターこそが生けるルールなのでしょうか・・・僕ら役職者や取締役は、本来はこういう人材が会社を疲弊させたり腐らせないよう、ジム・コリンズの表現を借りるなら「バスから降りてもらう」権限を行使しなくてはいけないわけです)と錯覚してしまう人たち、そして部門長どころかディレクターなんてものは職位ではなく職能にすぎないのに、どういうわけか他人を差配できる権力を握ったかのように誤解するような人材に権限を与えるのは、単純に経営側である僕らの失敗です。大抵の会社では、入社する人材に前もってメンタルな問題があるかどうかを検査することはできないので、後からどう対応するかが重要な課題となります。

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著者によると、「デジタル・マーケティング」の定石を力説する理由の一つは、こういう定石が無視され続けているからだと言います。もちろん、「ウェブ・マーケティング」やら「デジタル・マーケティング」について解説する本は25年以上も前から出版されていて(たとえば、三石玲子氏が書いた『WEBマ-ケティングサバイバルガイド』は1997年の発売です)、それこそ「ウェブ・マーケティング部」だとか「デジタル・マーケティング事業部」みたいなものも昔から多くの企業に作られていて、数多くのスタッフがインターネット時代のマーケティング担当者を名乗ってきたわけですね。でも、日本にそういう肩書を持つ人がどれほどいるのかは知りませんし興味もありませんが、その大半が本書の著者である垣内氏が言う「定石」を理解しておらず、言わば「車輪の再発明」を繰り返しているといいます。彼らにしてみれば、そういう定石が既に出版されたり、オンラインのメディアなどで公開されていようと、そういうものを全て虱潰しに読んでいるわけではないでしょうから、自分たちの新しい発見でありイノベーションだと思っているのかもしれませんが、もう25年以上も前から同じことを言っていたり知っている人がたくさんいるのでしょう。

ところで、「車輪の再発明」が一般論としていけないとされる理由は、まず第一に非効率とか資源の浪費ということでしょう。既に分かっている事実を、改めて検証したり発見するためにコストや資源を費やすのは単純に無駄だからです。そして二つめが、特に現代では再発明した車輪を実際に発明だと言い立てることは他人の特許権を侵害することになり法的なトラブルとなります。では、そういう車輪の再発明をわれわれはどうにか未然に防ぐべきなのでしょうか。それとも、たとえ車輪が再発明されてしまっても、他人の権利を侵害したり、資源の浪費が多くならないような仕組みや制度を整備した方がいいのでしょうか。僕は車輪の再発明が仮に「いけないこと」だとしても、それを未然に防ぐことはできないし、そういう努力こそが無駄なコストだと思います。なぜなら、車輪の再発明を防ぐには、第一に世界中に情報通信サービスが普及し、そして第二に車輪の再発明を未然に防ぐために全ての人(何も法人だけに限らず個人でも発明はできますから、全ての人が対象になるでしょう)が他人の技術を情報として得るか、何かを考案するときには事前にチェックするという、およそ実現しえない条件が必要だからです。事実、こんな厳しい条件はこれまでの歴史において実現できなかったので、ウェブ・コンテンツの制作だけに限らず、他の業種や業界でも車輪の再発明という多くの事例がありますし、科学という学術研究においても過去に見出された学説と同じ結果を何年も後に他の国で別の研究者が独立に見出すという事例があります。したがって、僕は車輪の再発明そのものを「いけないこと」だと言い立てたところで、まずそれを無くすことは不可能ですし、車輪の再発明を防ぐために非現実的な条件を想定するような施策や社会制度を求めるという、逆に有害とすら言える結果になってしまうと思います。

そもそも、「デジタル・マーケティング」の「定石」なるものが無視されているという事実があるとして、その理由が「車輪の再発明」であるという著者の推論には疑問を感じます。なぜなら、簡単な論理や言葉の話として、もし「デジタル・マーケティング」の「定石」と言えるような知見や経験則が本当に無視されているなら、そもそも「再発明」すらされていない筈だからです。無視しているものを再発明するなんていう表現は、日本語というか論理的に言って意味を為していません。僕は寧ろ、多くのマーケティング担当者が「定石」を無視しているのは、個別に車輪を再発明しているからではなく(僕は、大半の凡人にそんな能力はないと思います)、ただの不勉強だったり、その仕事に配属されたというだけで実はウェブ・コンテンツの運営やマーケティングという仕事に何の興味もないとか、あるいは自分たちはネット・サービスを使い慣れていて「デジタル・ネイティブ」であるという思い込みや思い上がりが理由あるいは原因ではないかと思うのです。逆に言えば、凡人が個々に思いつくていどのマーケティング上の事実なり経験則を「車輪の再発明」などと重大事のように評価すること自体が、レベルの低い話というか針小棒大な議論ではないでしょうか。そして、もし個々の従事者が、たいていは凡庸な才能やスキルや知識や経験しかないのに、その「車輪の再発明」とやらが自力で出来てしまい、再発明した車輪とやらを現実に業務で活用しているというのであれば、それはそれで良いことではありませんか。「デジタル・マーケティング」という業界の基本的な素養が多くの凡庸な人にも会得できたり、その業種で有効な知見をわずかな知識や経験だけで自ら考案できてしまうのですから。それがどうして、そもそも社会科学的なスケールで言って「いけないこと」なのか、僕にはいまいちよくわかりません。

ところで、著者が実際にどう述べているかを確認してみると、本書でこういう意味不明な議論が展開されてしまう理由は、実は著者が「車輪の再発明」という表現を誤解しているからだと分かります。

多くの企業・マーケター・コンサルタントが「成果の出ない施策」を繰り返してしまうのは、デジタルマーケティングの「定石」を知らないためです。[...] そのせいで、「成果の出ないことがわかっている施策」を再びゼロから作り直してしまう「車輪の再発明」が、いたるところで起こっています。これは、「経営資源の無駄づかい」以外の何物でもありません。[垣内,2020:20]

確かに、このようなことが資源の無駄づかいであることは否定しませんが、愚策を繰り返すことはただの無駄であって「車輪の再発明」ではありません。成果の出ない施策を繰り返すということは、車輪どころか役に立たない愚策を考案して繰り返すという意味なのですから、こんな愚策を「車輪」と呼ぶのは言葉の意味を分かっていないだけの話でしかないのです。よって、少なくとも車輪の再発明うんぬんに起因する議論は、そもそも言葉の意味を知らないという事実に発している推論によって展開されているのですから、参考にする価値も意味も必要もありません。ということで、「車輪の再発明」にかかわる議論は、少なくとも本書の内容に関してはやめましょう。それこそ生産性のない時間の浪費というものです。

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