Scribble at 2021-06-08 09:27:28 Last modified: 2021-06-08 10:18:03

かなり前に、テキスト・データとしての〈業績〉を著者の人格や経歴とは切り離して評価してもよいとする、いわゆる「モヒカン族」のスタンスを少し真面目に検討してみようという話を書いた。

この話題には幾つかの論点があるけれど、「モヒカン族」のスタンスに対する最も簡単な反論は、恐らく plagiarism だろう。つまり、我々の評価するテキスト・データが誰かの成果からの盗作や剽窃によるものだったとすれば、それでもオリジナルの著者が作成したデータと剽窃者の作成したデータが文字情報として同じ価値をもつからといって、それらが同じ評価に値するなら、実質的に我々は犯罪や不正行為を教唆したり奨励していることになるのではないか。盗もうとコピーしようと、あるいは昨今の新しい事業である「論文作成代行業」に依頼したり、あるいは事業者のウェブサイトで陳列されているレポートのカタログから適当な文章を買って教員に提出しようと、その文章にテキスト・データの内容として一定の価値があればいいというわけだ。ネオリベやリバタリアンであれば、経済活動が拡大して株価や GDP が伸びたり「自由」が保証されるなら何が起きても構わない(自分たちは安全を保証された地位や財産があるから)という連中なので何でもいいのだろうが(『人でなしの経済学』という本を書いている人はいるが、ゲーム理論などの分析方法を冷静に適用することと、彼らのように或る種のスペクトラムにおいて深刻なステージにあると疑ってもいい人々の思考は違う)、われわれはそうはいかない。

しかし、その場合にも我々はテキスト・データの内容について良し悪しを判断しているわけではない。「この10年に渡って~」と書き始められたテキスト・データの「こ」という文字が悪であるとか不正であると言っても意味を為していない(分析哲学で言う category mistake というやつだ)。あくまでも不正はテキスト・データを他人から盗んだ当人に帰せられなくてはならない。そうであれば、依然としてテキスト・データだけを取り出せば、盗まれたデータと盗んだデータとでは、少なくとも token として一致するがゆえに内容としての価値は同じであろう。よって、そのような(盗まれたという)経緯を知らない人、つまり民法で言う「善意の」人にとっては価値が変わらない筈である。すると、我々はいったい多くの情報源から得ているデータのうち、どれが盗作や剽窃によるものでは〈ない〉のかを検証しながら見聞きしているのだろうか。ひょっとして、The New York Times に掲載されている全ての記事が、どこかの田舎町で発行されている新聞からの盗作では〈ない〉と、いったいどう保証できるのか。

しかし、この議論になると、「モヒカン族」のスタンスについて是非を議論するための条件が変わってしまっている。恐らく最初の議論は、我々がテキスト・データ a とテキスト・データ b について、token としては完全に一致するとしても、a は(たぶん)オリジナルの作者である A 氏によって書かれ、b は(たぶん)剽窃者である B 氏によって書かれたという〈事実〉を知った上で a と b を(何らかの脈絡において)「同じ価値がある」と評価していいかどうかという議論だった筈だからである。よって、テキスト・データ a と b の出自なり経緯を(どちらか、あるいはどちらも)知らないという前提で、a と b とで盗作や剽窃といった関係があるかどうかを議論することはできないし、その〈議論できなさ〉だけで証拠不十分として両者を公平に評価していいかどうかの話をしたいわけでもないのである。

よって、我々の手元には全ての経緯なり事実があると仮定して、それゆえ b は a の盗作であると分かっていながら、「盗作である」という価値判断を除外して a と b を〈評価してよいかどうか〉の議論をしているわけである。〈評価できるかどうか〉というだけであれば、a と b が言語表現として一致する以上、初歩的な不可識別者同一性の原則から言って、両者を区別することはできないのだから、良し悪しを比較することはできない。それは、〈評価してよいかどうか〉と問われている際の評価基準として何らかの道徳とか、テキスト・データとしての情報伝達の形式とは別の基準を使わないという前提の上で、両者の伝える情報の内容に差があるかどうかを問うことと同じだからである。もちろん、「評価する」ことが直ちに一定の道徳的な価値判断を含意するというならともかく、そのような保証はない。

すると、我々はテキスト・データ a と b について議論しているというよりも、それらについて評価する際に基準として何を採用する〈べき〉なのかという議論をしていることになる。我々が現実にどう評価しているかという記述的な議論ではなく、我々はどう評価することが望ましいかという規範的な議論であろう。もちろん、それが〈現実的な〉望ましさなのか、それとも〈理想的な〉望ましさなのかという区別も可能だが、少なくともアリの行進を観察して「アリはこう歩く」と言いたいわけではない。となると、ここで既にテキスト・データの評価について、我々は「モヒカン族」のスタンスを自らただちに否定して議論することになるのだろうか。

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