Scribble at 2024-11-09 10:22:55 Last modified: 2024-11-09 10:23:26

単純に言うと、本はいいよね。ありがたい。知らないことが書いてあったり、ほぅ、そういうところは注意していなかったなと感心させられる指摘もある。普段は有能だのなんのと放言みたいなことを書いているが、基本的に僕は権威主義者なので多くのプロパーの成果には敬意を払っている。だからこそ、そういう蓄積を無視したり軽視してクズみたいな本を書いている連中を罵倒するのだ。

そういう連中が決してやっていないこととして、たとえば『テアイテトス』に出てくる(と自分で読んでいて認めた)論点を全てノートへ書き出して、該当箇所の「写経」と自分なりの批評を合わせてまとめるといった作業だ。僕もいちおう国公立大学の博士課程に進んだていどの人間ではあるから、その手の地道な作業は大学へ入る前から続けていたし、いまでは NotebookLM のようなツールはあるが、似たようなことは還暦が目前になっている今でも続けている。繰り返しておくが、俺は売れてる本を書いてる有名な哲学教員を罵倒してるだけの素人じゃねーんだよ。

実際、海外も含めてだが、古典的な著作だけに限らず、何か書籍を一冊まるごと扱って、各節の概要と注釈と自分なりの批評を並べて公開しているサイトなんて殆どない。日本の IT ベンチャーなどで働く若造が程度の低い読書ノートみたいなものを Qiita とかに公開することはあるが、たいてい尻切れトンボだし、それを自分の勉強なりに活用したという解析もない。ノートを取るのは、そもそも小学校の勉強ですら言えることだが、ノートを取るときに頭や手を動かすという、よくある記憶の定着に有効だという効用だけが目的なのではなく、それを自分で読み返すといったことにも活用できなくてはいけない。そして、そこから自分なりに内容を噛み砕いたり、他の話題に応用するきっかけになるからこそ、得てして京大とか東大にストレートで入るような人たちに限って授業の予復習しかしていない(予備校や通信教育を利用しているわけでもない)という場合があるのだ。あれらの事例を「天才」とか「才能がある」なんていう程度の低い教育学みたいなもので片付けるのは愚行であろう。

こう考えると、別に古典じゃなくても良いのだが、一冊を丁寧に読み解いて自分なりの批評を加えた経験というものが以外に少なくて、やはり読み流してしまっていることも多々ある。なので、当たり前だが細かい論点は忘れてしまう。それでは勿体ないので読書ノートはつけるようになったけれど、ここ最近は学生時代に『テアイテトス』のノートを作ったようなことをしていない。よく、「そんなことをしていたらきりがない」と言われたりするのだが、学問にそもそも「きり」なんてないし、それは単に何を集中して読むべきなのか、何にも判断せずに本や論文を「情報処理」してるだけだからだろう。なので、そういう不見識というか(またこういうことを書くからいけないのだが)無能な者の不平不満に弁明を考える必要はない。

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