Scribble at 2022-02-10 16:23:55 Last modified: unmodified

あまり科学哲学ではケース・スタディの題材として見かけないが、改めて電気を学ぶと非常に面白い。ということで、初等的な教科書や参考書の部類を読み直している。上記は1989年に大熊栄作氏が東京電機大学出版局から出した一冊であり、もともと工業高校の電気科の教科書として書かれたものだという。実際、紙面の余白の取り方や文字の大きさや行間といったタイポグラフィカルな特徴が、いかにも教科書だと思わせるものがある。しかしなんにせよ、標準的な高校の物理だと数十ページで終わってしまう電気や磁気の話題をしっかり読めるのであるから、多少は古くても一読の価値があろう（生物学や地球科学だと、40年前の教科書を信用して読むのは難しい思う）。というわけで、アマゾンで300円ほどで手に入れた。

実際に眺めると、いたずらに指弾するというよりも参考とすべきことなのだが、教科書として書かれた著作であるにも関わらず首を傾げざるを得ない表現が多々ある。

「よく乾いたガラス棒や万年筆などを絹布やナイロン布で摩擦すると，小さい紙片や木片などの軽いものを吸引することは，よく知っていることであろう。」（p.1）

僕は、科学哲学のテキストをつくる計画をもっていて、おおよそ真面目に義務教育の課程を終えた人を想定して文章の構成や語句の使い方をデザインしている。つまり、この教科書は工業高校の生徒が読むという前提で書かれている筈なので、想定している相手は最低でも僕が書こうとしているテキストの読者と同じていどの学力や予備知識や知能の人だろう（もちろん「若者」でなくともよい）。そうであれば、上記の文章は1980年代という執筆時期の事情を加味しても、僕には不適切に見える。一つずつ指摘してみると、

(1)「絹布」：そもそも中学の国語を終える段階の生徒が「けんぷ」という読み方も含めて、絹布の実物を目にしたことがあるかどうかは疑問がある。家庭科の授業などで扱う機会はあるかもしれないが、家庭を含めて日常生活で頻繁に扱う素材でなければ、あまりリアリティはなく、具体例として持ち出されても「それはなんや？」ということになる。

(2)「ナイロン布」：(1) と同じ理由で、ナイロンの布をわざわざ単独で扱う機会が中学生までの生徒にあるとは思えない。中学生で、ナイロンやビニールやポリエチレンやプラスティックやアクリルといった高分子化合物の区別が正確にできるていどの化学（ないしは日用品）の知識があるとは思えない。

(3)「摩擦する」：僕には標準的な日本語の表現には思えない。どうして「擦る（こする）」と書いてはいけないのか。

(4)「よく乾いたガラス棒や万年筆などを絹布やナイロン布で摩擦する」：要するに、エボナイトなどで作られた物体を上記のような布で擦ると帯電するという現象を使いたいのはわかるが、それは電気を勉強した人間にしか分からない脈絡の「適切さ」であり、いきなり持ち出された方にとっては不可解なだけだ。万年筆を持っている中学生なんて昔から100人に一人もいないし、ガラス棒を自宅に持っている生徒などさらに少ない。そして、授業でやらされたという事情を除いて、ガラス棒を絹布で擦った経験がある中学生なんて、殆どいないだろう。

(5)「よく知っていることであろう」：参考書などにもしばしば登場する表現だが、僕は日本語話者としてこういう無駄なことを書く理由が理解できない。みんな知ってることなら「よく知っていることであろう」と書く必要がそもそもないからだ。敢えてこんなことを書く目的が他に何かあるとすれば、「こんなことすら知らないようではいけない」という牽制目的の表現だとしか思えない。でも、万年筆を布で擦る経験が中学生に（授業でみんなやらされたというならともかく）ないからといって、それがいったい何なのか。人として未熟な証拠なのか、それとも大人になってから「下級国民」として差別でも受けるのだろうか。

ということで、僕が書くとすれば次のようになるだろう。

「汚れた定規や下敷きをハンカチやタオルで拭うと、消しゴムのカスや紙屑が定規や下敷きに吸い付くことがあります。」

あるいは、小学生の頃に男子の多くは下敷きを腹で擦ってから下敷きを膝に近づけて、足の産毛が下敷きに吸い付く感覚を面白がった経験があったりするものだ。でも、そこまで卑近な事例を持ち出す必要はないだろう。なぜなら、それは（「摩擦」という言葉を知ってるかどうかはともかく）擦ると面白いという事実を知っていてわざとやっていることだからだ。