Scribble at 2024-10-01 09:27:39 Last modified: unmodified

このところ、僕は日本の伝統などという矮小な基準に固執しない、「人類史スケールの保守」だと言っている。でも、よく考えてみたら誤解を招きやすいスタンスではある。なぜなら、これと似たようなスケールの御伽噺が大流行しているからだ。やれ「人新世」だの、やれハラリの『サピエンス』だの、少し前ならジャレッド・ダイヤモンドの本が流行ったし、ビル・ブライソンの『人類が知っていることすべての短い歴史』などもアメリカではよく読まれたようだ。ああ、それと色々なテーマの通史を新書で乱造している三流大学の学長とかもいたな。

もちろん、僕が奉じている保守思想も文化人類学や人類史といった知見に多くを負っている。彼らの著作にもいくらか学ぶべきことはあろう。でも、僕はこういう「エンターテインメント」と言う他にない、学術的に言って極めて雑な、殆ど著者のイデオロギーを語るためのチラシやビラに近いような著作物を、まともなものだとは思わない。ハラリやダイヤモンドは著書で有名になったが、では彼らはもともと何の業績があって、かような大言壮語としか言いようがない本を書いて大手出版社から本にしてもらえるような能力があると認められていたのか。そんなこと、プロパーしか知るまい。つまり、一般的な基準で言って歴史の理解を刷新したという巨大な業績もなく、何か新しい歴史の分析方法を見出したわけでもない。かろうじて売れる本を書いたことで知られるようになったというだけのことである。したがって、彼らがどうして有名なのかと言えば、それはつまり「有名だから」であって、これは要するに出版業界のマーケティングによる自作自演と言ったほうがよい。

実際、ハラリの『サピエンス』に至っては、専門の解説書からワーク・ブック、果ては漫画版まで出ている。まるでカルト宗教の教祖が手掛けた著書みたいなものとして、文化的僻地の人々に崇められているしまつだ。しかし、そうまでマルチメディア戦略を続けて、実は『サピエンス』は原著が出てから10年が経過するけれど、それでいったい何が起きたのか。世界中で、少なくとも文化人類学や歴史学という専門の分野だけに着目してみても、『サピエンス』が出版されてから10年が経過したというのに、学術的には何も変わっていないし、変わるであろうという様子もない。もちろん、これを漫画にしてまで読みふけっている人々が、これを読んでいったい何を成し遂げたというのか。せいぜい全国の高校や大学でクズみたいな読書感想文が大量に書かれたり、流行の本について解説しようなどと馬鹿がブログ記事をたくさん書いたていどであろう。

つまり、人類史をテーマにした本こそ、皮肉なことだが人類史に何の貢献もしない著作物なのである。僕が掲げる人類史スケールの保守は、もちろんこういう下らない「通史」や「歴史観」を披瀝するといった浅薄というべきスタンスは採らない。人類史スケールの保守思想という観点から言えば、僕らが容易・安易に手放すべきではない価値観や生活スタイルや思想というものは、それを指摘するだけならたいていの人がすぐに分かるようなこと、たとえば尊厳死のような決断を伴わずに自ら命を絶つことは推奨されないといったことの積み重ねである。したがって、多くの国や地域や時代や世代にあって、大多数の人々が当たり前だと思うようなことが基礎になっているため、社会思想や哲学としては全くインパクトがないであろう。いまどきの書店で「日本思想」とか「現代思想」などという棚に置いてある、岸くんや彼の同僚として勉強がどうのこうのとスノッブさながらの本を量産しているブ男とか、小平の英雄とか、その手の下らない本を毎月のように量産している「あの連中」が書くような本と比べたら、ナイーブなのに刺激を求める昨今の若者にとっては、僕が奉じる人類史スケールの保守思想というのは全く魅力がないと思う。しかし、逆に言えば、僕はこういう堅実な思想を奉じているからこそ、そういうインチキ人類史のような本を全く手にする必要なく、哲学者としても、それから思想家としても地に足をつけた議論ができるし、学術的にもそれなりの水準を維持してものを考えられるわけである。

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