2022年04月09日に初出の投稿

Last modified: 2022-04-09

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Unsplush という写真の共有サイトで「ルート66」の写真を探していた。そのまま "route 66" で検索していたのだが、道の写真に限って良いものがない。どうやら、僕がルート66に興味を覚えたり何か惹かれるものを感じるのは、道路ではないらしい。上のような廃墟と化した店舗だとか、放棄されて朽ちたトラックだとか(その中には警察車両すらあるのが、いかにもアメリカらしいと言えばいいのか)、要するに僕が日本国内の風景写真なり土地の様子でも魅力を覚える〈寂れ感〉が、あまり道路の写真には見られないからなのだろう。

足立巻一という人物の著作に教えられたこととして、人の営為などというものは簡単には受け継がれたり蓄積したりしないというものがある。それがたとえノベール賞を受けたような、有名で際立った業績であっても、その全てが後世に〈正しく〉受け継がれるわけでもなければ、ましてや〈全て〉受け継がれるなどということは、おそらく原理的にありえないのだろう。われわれが先人なり教師なり先輩なり親なり知人なりから、勝手に思い込むのであれ無理やり教え込まれるのであれ、嫌でも何でも受け取ったものの中から何を選び取るかは能力としても時間としても限度がある。そして、それら全てを「歩留まり」として受け継いだところで、実際のところそれらの大半は誤解だったり未熟な理解だったりするのだろう。それどころか、殆どの人々は受け取った知恵とか技法とか教えを活用もしないし、実際にはそれらからの成果や結果を何も生み出さずに過ごす。恐らく統計学として精密に社会科学的な分析をするなら、人の知恵や知見の伝播とか伝承などというものは、人が勝手に文学作品やメディアのドラマなどで描いているほど簡単かつ広範かつ長期的に起きたりはしない。逆に、どんなに大切なことであっても、人はたやすく忘れたり無視したり蔑ろにさえする。いま東ヨーロッパで起きている愚かな侵略行為や、周りで(しかも Twitter などを介して東アジアの辺境国家においても)必死に自分たちの振る舞いを弁解したり正当化している人々の様子を見ても、総じて言えば紀元前に起きていた出来事と大差ないことが分かるだろう。

有能な人間の才能は百花繚乱だが、凡人の愚劣さは何千年が経過しようと全く同じだ。

もちろん、だからといって、しょせん人間のやることなんて空しいと冷笑したいわけではない。いま言ったこと、つまり「人の営為などというものは簡単には受け継がれたり蓄積したりしない」ということは、逆に言えば非常に困難な条件をクリアすれば後世に何らかの知見を一部でも伝えたり、それこそバカがよく言う「シェア」できる可能性はあるということだ。そして、その条件はどう考えても通俗的な哲学本を山のように出版することではないし、立命館大学の教授になって不細工なアイコンを Twitter に貼り付けたり、哲学のプロパーが素人の調べものレベルの西洋史についてあちらこちらで講演したり読み物を書き散らすような愚行でもあるまい。ましてや、岩波書店や筑摩書房から自分の全集や著作集を出してもらうことが、そういう条件であるなどと思い込む自意識の結果なんて、足立さんに言わせれば当人が死んでからものの数年で忘れ去られてしまう。

実際、まじめな話として言うが、過去の日本の哲学教員、哲学研究者、あるいは自称でもなんでも哲学者として、われわれが何か学界(言っておくが国内の知人を集めた内輪褒めなんかどうでもいい。国際的な評価の話をしている)の総力を結集して受け継ぐべき知恵をもたらしたと明言できる人物が一人でもいるのだろうか。どう考えてもいないだろう。高橋里美や田中美知太郎や西田幾多郎とは日本だと「ビッグ・ネーム」であろうし、名前だけはアメリカやフランスでも一部に知られているかもしれないが、しょせん海外で訳本を読んでいるのは変わり者だけだし、国内ですら哲学プロパーの半分は彼らの著作に手を付けたことすらないだろう。

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