Scribble at 2024-02-04 10:26:06 Last modified: 2024-02-13 14:20:44

トニ・モリソンの講義記録が岩波文庫から出たことをご存知の方もいると思うのだが、あの薄い本の中では、僕が知らなかったアメリカの文芸作家が何人か登場していて、しかもモリソンの批評にも導かれたせいもあって、そういう人々の作品や生涯に強い関心を抱かせるものを感じる。たとえば、その一人が以前も御紹介したウイラ・キャザーである。既に図書館から翻訳書を借りて読んでいるし、モリソンが批評の題材として取り上げている Sapphira and the Slave Girl (1940) は原著を手に入れた。

そして、この図書館から借りた翻訳も含めて、既に彼女の作品は public domain となっているため、せめて幾つかの作品に目をとおしたうえで、当サイトでも distribution を掲載しようかと思っている。これは、原文を再編集して当サイトのレイアウトへ整形したページを公開するという意味だ(既に、前例として The Right to Privacy という論説を当サイトで公開している。再編集しているので、厳密には「転載」ではない)。特に、図書館から借りて目を通している A Lost Lady (1923) という作品は、これまでに日本語訳が二冊ほど出ているようなのだが、どちらもタイトルに違和感がある。なので、この作品は時間があれば原文を当サイトで掲載するだけでなく、小説については初めてのことになるが翻訳も公開しようかと思うほどだ。

その作品の日本語訳のタイトルをご紹介すると、僕が借りている方はタイトルが「迷える夫人」となっている。そして、もう一つは「さまよう女」だ。僕は、どちらも気に入らないし、端的に言っても間違っていると思う。なぜなら、どちらも "lady" を主体として見立てている表現だからである。このような訳し方だと、ストーリーを追っただけの人にとっては「金づるのあいだを渡り歩いているあばずれ」というニュアンスになってしまう。しかし、この作品は主人公の少年を通して見た "lady" の話であり、フォレスター夫人の内面は夫人自身の言葉では描かれていないのであって、夫人が迷っているだとか、あるいは女がさまよっているなどという、その "lady" 自身が何かをしているという訳し方をしてはいけないと思う。それに、この作品に登場する女性の生き様を眺めると分かるとおり、その全体を描いた表現として「迷う」とか「さまよう」などと言うのは、どう考えても作者の構想を反映していない。これでは、没落した末にスラム街で売春婦になった女性のストーリーみたいではないか。そして、端的に言って間違っているのは、この "lost" は "a lost article"(遺失物)という表現で分かるように、lose した主体は別に示唆されているのであって、"a lost lady" という表現の主体は lady ではなく、理想化していたすがたを現実のフォレスター夫人が失ってしまったと感じて一時は失望していた主人公(語り手)なのである。なのに、「迷える夫人」だの「さまよう女」では、どちらも迷ったりさまよっている主体がフォレスター夫人自身であるかのようになってしまう。これでは「過去分詞の限定的用法」というものを知らないと言っているのと同じであり、高校英語としても零点である。

つまり、作品のタイトルにすら疑問があるのだから、翻訳を読んでいても不安を感じる。なので、一通り目を通したらプロジェクト・グーテンベルクの原文を参考にして、それを当サイトでもご紹介するか、あるいは自分で翻訳も掲載すべきか判断したい。

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