Scribble at 2026-04-07 20:40:03 Last modified: 2026-04-07 20:46:10
書評だからという言い訳ができるのかどうかは分からないが、underdetermination について、現在でもこのていどのレベルでしか議論できないというのは、いったい英米のプロパーも何をやってきたのかという気がする。
まず内容を概観しておくと、この文書はデイナ・トゥロジェツキの著書である Underdetermination and Theoretical Virtues に対する P・カイル・スタンフォードの書評だ。科学的実在論は、複数の理論が経験的に同値(empirically equivalent)で証拠だけでは選べない場合でも、シンプルさや適用範囲の広さや数学的な表現の美しさといった「理論的な徳」を備えている方が真実である可能性が高いと主張してきた。これに対してトゥロジェツキは、たとえそれらの徳が単なる実用的な便宜ではなく、認識的な価値を持つと認めたとしても、実際には異なる理論どうしの徳をどう比較し、重み付けするかの客観的な基準がないため、決定不全の問題は解決しないと論じている。ちなみに、僕の恩師である竹尾治一郎先生は "underdetermination" を「不十分決定」と訳していて、いまだに定訳というものはない(僕は「決定不全」という訳を支持しているが、先生はどういうわけか頑なに嫌がっていた印象が残っている。「心不全」みたいなニュアンスだからかな)。日本科学哲学会の正会員としては、出版社が見つかるかどうかはともかく、そろそろ学会で音頭をとって科学哲学の用語集なり事典を編んでオンラインで公開してもいいのではないかと思う。
で、理論的な徳が必ずしも真実を保証するわけではないが、トゥロジェツキは、科学の認識的な目標を促進する役割を果たすという「理論的な徳の認識的な労働説(epistemic labour view of theoretical virtues)」という中間的な立場を提案している。スタンフォードはこの独自の立場について、彼女が挙げる「認識的目標」の多くが結局は真実の追求に集約されてしまうのではないかと批判的に分析しつつも、この本が提示する歴史的事例の価値を高く評価している。
これは、もちろん昨今の epistemic virtue / justice のような概念とかかわりがあって、かつてジャック・デリダやミシェル・フーコーがやったような、認識論を社会的な脈絡に置くという歴史主義を、科学哲学や分析哲学の内部から実行するような話であろう。もちろん、これは分析哲学がポストモダンになったとか、科学哲学を脱構築するといった与太話ではなく、科学や科学哲学というものの概念や議論についても、その歴史的な経緯や時代的な背景という属性を正確にとらえるというまともな議論の影響なのだろう。ただ、それにしても underdetermination の議論としてナイーブであるという印象はぬぐえない。ラリー・ラウダンとジャレット・レプリンの有名な "Empirical equivalence and underdetermination" という論文が現れたのは1991年だから、もう35年も前の話だ。新卒で会社に入った人物が定年退職するような時間の経過がありながら、いまだに上で紹介したようなレベルの議論しかできない英米の科学哲学というのも、なんだか唖然とさせられる思いだ。英語で書かれた成果という条件でなら、研究者の数は35年前に比べて更に増えているし、メキシコやブラジルや EU 圏などからも英語で業績を出す人が加わっているというのに、やはり科学哲学も袋小路に追い込まれてしまい、ピースミールな研究どころか bullshit research でジャーナルへの発表業績を競うような状況へと落ち込みつつあるのだろうか。