Scribble at 2024-01-18 12:51:37 Last modified: 2024-01-19 18:32:33

いわゆる「イメージ」に訴えることで、他人どころか自分自身も錯覚に陥ってしまうというリスクがあることを、ここでは繰り返して指摘してきた。したがって(科学)哲学にかかわる議論を通俗本であれ研究論文であれ作成する場合に、そこで採用する視覚的な効果や錯覚についての知見を弁えておくのが、執筆者や編集者の基本的な素養でもあり責任でもある。いまや、それらは商業的な生産工程で扱われるというだけではなく、教育においても多くの学生になかば購入したり読むことを強要できるものであるし、数においても場合によっては数万という単位で普及することもある。

本来、デザイナーの立場から言えばレイアウトや書体の選択などについても言えることはたくさんあるわけだが、科学哲学のプロパーにタイポグラフィまで勉強しろとは言えないし、日本の未熟な書籍編集者にタイポグラフィの素養などもとめるべくもないので、そこはわれわれプロに任せておけば良い。しかし、いくらデザイナーや DTP のオペレータであろうと、挿入する図版や表や写真にまでは責任を持てないのだから、そこは特に編集者の責任が大きい。ただ、視覚的な効果や錯覚を知っているだけでは、その効果がどんな意味をもつかとか、その錯覚がどういう implication をもつかを想像することは難しい場合がある。したがって、執筆者と編集者とで、それらを丁寧に議論しておかなくてはならない。

一つだけ簡単な事例を上げると、「グローバリゼーション」なる言葉が流行して暫く経つわけだが、この言葉も概念として扱うにはあまりにも雑で、しかも強烈な錯覚を人に与え続けているため、評論家のような結論ありきの物書きはともかくとして、社会科学者ましてや社会哲学や社会思想史を専攻するプロパーは、取り扱いに慎重を要する。なぜなら、この言葉は多くの場合に、世界規模での「地ならし」あるいは「均等化」という何の根拠もないイメージをばらまいているからだ。簡単に言うと、「グローバリゼーション」とは世界規模で普及するという点までしか正確な意味をもっておらず、そこから先に世界規模で「差別が蔓延する」のか、「格差が広がる」のか、「同じ基準が当てはめられる」のか、あるいは端的に言って「平等になる」のかなんて、何の保証もないのである。なのに、何事かが「グローバルに」広がるというだけで、無条件に多くの場所で何かが同一条件になったり、同じ基準で評価されたり、あるいは同じような結果をもらたすという願望を人に与えてしまう。これは、要するに「グローバリゼーション」という言葉が、仕切りで分けられて水位が異なる二つの区画をもつ水槽で仕切りを外したらどうなるかという、小学生の理科の実験みたいなものを人に想像させるような文章で語られてきたからだ。しかし、実際にはグローバリゼーションにそのような平等とか均等とか公正といったバラ色の未来など保証する力はなく、寧ろグローバリゼーション(による目当ての効果)を目指している「グローバリズム」の宣伝道具でしかないと考えるべきであろう。

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