Scribble at 2024-10-03 08:14:15 Last modified: 2024-10-03 08:18:53

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【追悼】「生粋の無頼派」福田和也は何者だったか

日本の「論壇」とか呼ばれている物書きの擬似アカデミズムみたいなものが醜悪なのは、こういう、批評であろうと批判であろうとしょせんは内輪褒めにすぎない文章をせっせと書く人たちがいるということだろう。あれだけあからさまに保守を口にする『産経新聞』ですら、訃報と安っぽい回顧記事を載せたていどの人物が、果たしてどれほどの知的インパクトを与えたのか。僕は、こういう物書きや出版業界による「新進気鋭」だの「俊英」だのという宣伝文句に始まって、やれ「日本の知性」だの「知の巨人」だのという、殆ど夜郎自大としか思えない大言壮語に至るまで、彼らが物書きや出版社として書き殴っているそうした下らない表現とか文章というものに、人類史スケールの保守思想家として言わせてもらえば苦笑する他にないんだよね。それに、どれほど教科書に文章を掲載されたり古典だの何のと言われていようと、正直、ノベール賞を受けた川端康成や大江健三郎の著作ですら、100年後には古本屋にすら出回っていないと思うよ。

それに比べて、たとえば正確でもなければ誇張や間違いすら加わるかもしれないけれど、100年後ですら多くの家庭では「桃太郎」や「花咲かじいさん」の話を語って聞かせる親はいると思う。僕は、どうしてこれほど暇な社会学者や、とりわけ柳田國男という先人がいるにもかかわらず民俗学者が丁寧に調べたり考察しないのか、昔から不思議でしょうがないのだけれど、こういう民話とか昔話の類が人々の思想とか観念とか民度の形成においてどういう影響があるのかを、もうちょっと真剣にテーマとして考えたほうがいいと思うんだよね。そのへんの、毎年ウジ虫のように増える芥川賞や直木賞の作家なんて、刹那的な本の売上が何冊だろうと結局はどうだっていいわけでさ。

同じく、こんな殆ど知的インパクトがない、仲間内だけで褒められているにすぎない小物のライター風情をどうこう語ってる暇があったら、実質的な知的インパクトとはどういうものか、もしそれが必要だとすれば、どういう手法がありえるのかを、少しは真面目に考えるべきだと思うよ。そのために有効なら、もちろん漫画だろうと YouTube だろうと利用すればいいわけで、何らかの権威がほしいとお望みなら「漫画論壇」や「動画論壇」みたいなものが掲載されたっていいわけだ。無論だが、文章によって可能なことは常にあるのだろうから、既存の物書きが改めて自分たちのスタンスなり役割なりを考えてもいい。こんなことをいちいち哲学者に言わせてる時点で、既存の小説家や評論家は表現者として恥じるべきだと思うね。

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