Scribble at 2024-01-14 08:31:45 Last modified: 2024-01-14 10:03:39

添付画像

ドラマ「三体」公式サイト。世界的ベストセラー「三体」世界初実写版。ついに日本上陸!

ドラマ「三体」公式サイト

このほど連れ合いが最終巻を手に入れて、ようやく翻訳版の全5冊が揃ったという『三体』は、既に WOWOW ではゲーム会社のテンセントが制作した「テンセント版の三体」が放映されており、そして今年の3月からは Netflix が新しく制作した「Netflix 版の三体」が放映されるようだ。それまでに原作を読了できるかどうかは分からないが、僕も一読しておきたい作品ではある。

この作品が、多くの物書きによって Twitter などで大宣伝されていたのは、おおよそ4年くらい前であった。もちろん物書きのツイートなんてたいていがポジション・トークや宣伝、あるいは自意識であるから(その内容が出版物だけにとどまらず、およそ政治や福祉や災害や犯罪に関わるものであろうと)、彼らがなにかにつけて「現代の古典」だの「新しい古典」だの「俊英による快作」だのと言っては、その裏でこっそり「そういうものを公に評価できる地位にある僕って、私ってば権威者だし」などと言いたがっているのは明らかだ。このこっそり暗示できる但し書きのニュアンスがあるからこそ、物書きだろうと大学教員だろうと、いやその辺にいくらでもいる凡人だろうと公で物事を口々に評価できる。それこそ、クズみたいな場末の飲食店で観ている野球の試合を論評する、自分では握力が 50kg もないし 130km/h ていどの球も投げられないオヤジと同じだ。

しかし、いまでこそ映像作品として再び話題となっているが、この手の作品がたちどころに消費されて忘れられてゆき、そして彼ら権威筋とやらは続々と次の「商品」を X やら YouTube やらでお勧めするというのが風物詩というものだ。僕ら哲学や思想にかかわる者が関心を寄せる分野の出版物においても、やれなめらかななんとかだの、独立研究者がどうしたの、それから論文の書き方がどうという本が、出版社とか通俗物書きたちによって大宣伝されていたし、おおよそ毎年のように国内の大出版社からは「現代の古典」が現れ、そして毎年のように「知の巨人」が出てきて、いまや我が国は八尾万津の神だけでなく無数の知の巨人がいて、まるで『進撃の巨人』に描かれたパラディ島のようである。したがって、結局はそういう無数の作品の中でどれを読むかは自分で決める他にないし、そうであってよい。僕らは学校で国語を試験を受けるわけではないのだから、やれ漱石を読んでないだの、ドストエフスキーはどうかとか、そんなことを他人にどうこう指図されるいわれはないし、それらを読んでいないというだけの理由で無知やバカ扱いされるいわれもないだろう。もっと言えば、本なんて読んでいなくても善く生きられる人はいくらでもいるし、それこそ莫大な資産を築けるし、強力な権力すら手にしうるし、そういう利得を目指していないという人であっても、それぞれにとって満足のゆく生き方はできるのである。そもそも、為政者でもなければ武士でもなかった大半の被支配層のわれわれ民衆が本どころか公の情報が書かれた文書を読めるようになったのは、ここ150年くらいのあいだで普及した公的な教育制度の結果であって、僕なんかでも、明治時代に生まれていたら農民や漁民のガキなんて本を読む暮らしは絶対にできなかったであろう。

話は大きくなりすぎた。ともかく、これから暇を見つけて『三体』を読むわけだが、既に読み進めている連れ合いによると、登場人物の大半が中国人であるため、人名が覚えられないという。そこで、WOWOW 版の映像作品の公式サイトで見つけた人間関係図を示してみたのだが、なるほど分かりにくい。そもそも、僕ら外国人は、同じ漢字を使っていながら漢字の運用にかかわる風習を異にしているため、たとえば中国で名前をつけるときに、男子につける典型的な名前だとか男子の名前に使われる漢字を知らない。なんとなく、女性には「ミャオミャオ」といった繰り返しの音になるような名前が多いような印象はあるけれど、本当にそうなのかどうかは分からない。男性でも「ヨウヨウ」などと発音する人がいるからもしれないからだ。また、日本人に比べて人名の文字数が少ない人も多い(日本では、「楊冬」のように氏名が二文字という人は非常に少ない)ため、漢字一文字で他人と区別することになり、これは意外と難しい。最低でも二文字だと、「藤原」と「加藤」のように、同じ文字を使っていても区別しやすいのだ。そもそも「藤原」と「加藤」では「藤」の発音からして違うからだ。なので、当サイトでも紹介している足立巻一氏の『やちまた』という作品は、それこそ国文学や国学に関わる人名が何百と登場するが、さほど混乱しない(ただし、その多くは覚えていなくても話の筋に関係がないので、教科書を読む場合と同じくすぐに忘れてもいいからなのだが。日本史の教科書でも、四日市ぜんそくという公害について書かれた記述を理解するために源頼朝の没年を覚えている必要なんてないのだ)。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook