2021年04月26日に初出の投稿

Last modified: 2021-04-26

日本が北京オリンピックをボイコットしたらどうなるかという話題が出ている。モスクワ五輪をボイコットした後にアスリートが被った影響を紹介して、史上最高の舞台が失われた悲劇を訴えるという、あいかわらずの刹那的で感情的な議論のようだ(タイトルや内容を支持しているツイートなどから判断しているだけで、いちいちこんな記事を読む時間など勿体ない)。

この話題には、他方で批評も幾つか出ている。論旨としては、そもそもオリンピックを史上最高の舞台と思い込むのは制度やメディアの利害関係に刷り込まれた価値観でしかないというものだ。

僕は、短い間だが陸上競技をやっていたという経験から、体育教師や先輩らが競技会(の成績)に拘る理由が分かる。確かに、わざわざ念入りに用意された環境で競い合うことで、普段よりも高いパフォーマンスが出せるという生理的・心理的な作用というものはあるかもしれないからだ。そして、その上で勝ち進んでいく者が高いパフォーマンスを出した者として称賛を受けるに値するという理屈も分かる。

100 m を物理的・生理的な機構の結果として速く移動するというだけなら、陸上競技生活を送ったこともない(しかし何らかの事情で超人的な神経組織や筋肉や骨格を備えた)人が、たまたま近所の公園で 100 m を8秒で走りうる。それは誰にも分からない話であり、もしかするとそういう人が過去にいたかもしれないので、誰かがオリンピックで金メダルを授与されようとも、その人は〈100 m を走るのが真に最も速い〉人ではないかもしれない。

しかし、そんなことは実はスポーツ競技においては問題にならないのだ。称賛されるべきは〈その場にいる者の中で最も優れたパフォーマンスを発揮した〉者なのであって、オリンピックは〈人類最速〉の者を見つけたり承認する場ではないのである。よって、その場に出てきていない時点で、その人物がいくら近くの公園で 100 m を8秒で走り、その証拠としてビデオを撮影していたとしても、その人物に金メダルを授ける競技団体など存在しない。全てはルールに従っているかどうかという前提がある上での結果なのである。

したがって、ルールとして最も厳格で難しい条件の競技を勝ってきた者たちによるステージなのであるから、オリンピックが政治や外交の道具であれ報道機関の商業主義に毒されているのであれ、条件として最も過酷である事実は変わらない。誰かが好き勝手に公園で走る際に、ドーピング検査を誰がしてくれるのかというわけである。よって、別の価値観として別の条件を立てた上での競技方法だとか競技会はあるかもしれないが、選手がオリンピックを最も価値のある舞台だと考えること自体を、そんな安っぽい相対主義や多様性ヲタの議論で軌道修正できるわけがないのである。逆に、今日はこれ、明日はあれと、好きなゲームを代わる代わるやってるようなガキじゃあるまいし、スポーツ競技を舐めるなと言いたい。

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