Scribble at 2020-08-24 17:37:37 Last modified: 2020-08-24 17:44:13

八〇年代日本では「ニューアカ」ブームが起こったが、これについて当時「近代」にすら至っていない日本で「ポストモダン」を云々するなどバカバカしいという反応があった。今となっては全くその通りであろう。

ミチコ・カクタニ著 『真実の終わり』

関数解析などで知られた数学者の角谷静夫の娘という経歴から知るようになった、もと The New York Times の首席書評者だったミチコ・カクタニが書いた本というわけで、僕も随分と前から翻訳が出ないものかと期待していた。なんせ、NYT で読む書評は酷く難しい英語で、僕の能力では全く気楽に読めなかったからである。それから翻訳が出たことを書店で知ったのだが、軽く中身を確認しないまま、またぞろトランプ叩きの一冊だろうと高を括っていた。すると、上記のとおりトランプというよりもポモ叩きの本であり、しかも上記の書評が正確であれば、哲学者として読む価値があるとは思えない、その辺に履いて捨てるほどいる三流自然科学者やエンジニアのサイエンス礼賛本の一つとして、心の中でラベルを貼って終わるような駄本ということになる。

哲学者は、というか学術研究者は駄本を読む義務や責任などない。断じてそのような暇潰しに時間を浪費する必然性などなく、妥当で正確で厳密で、そして正しいと自分でコミットできるものにだけ専念し、続々と業績を上げ続けて死ぬべきなのである。素人のたわごとや質問に答える責任などないし、通俗書を執筆する義務もない。そして、それゆえ専門的な知識をもたない我々は、寧ろそういう人々が社会に無断で勝手にどんどん進んでしまう危険を予測するためにも、最低でも博士号をもつサイエンス・ライターを育てて競争させるべきなのである(そういう危険回避の兆候を科学者自身にゆだねることが、寧ろ社会として愚かであると思わない人は、大人としてどうかしている)。素人感覚で学問に《いっちょかみ》するライターなど必要ない。なぜなら、そういう連中が物書きとして有能である前提など誰も保証できず、したがって有能な元プロパーが有能な物書きとなるよう訓練したり試行錯誤する方が、良好な結果を生み出す見込みの方が高いからだ。

よって、厳格に言うなら、書評のブログ記事一つで断罪するのもどうかとは思うが、多くの哲学者はこの一本を読むだけで『真実の終わり』を哲学者として読むことにコミットしなくてもよいと言える。そして、そういうコミットメントを解除したり放棄したことで致命的に重大な真実を見誤るリスクが残留するとは思えないと言えるだろう(そして、そういう目測にコミットすることもまた、哲学者としての見識というものでもあろう)。

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